概要
イギリスの元競走馬・種牡馬。
通算戦績10戦8勝。
1986年度ヨーロッパ年度代表馬、イギリス年度代表馬、フランス年度代表馬。
1980年代にヨーロッパ最強と言われたが、種牡馬となって1年目にマリー病に罹患し、1991年に格安な値段でJRAに購入された。
病気により種付けの数が少ないにもかかわらず日欧双方で次々と有力馬を輩出し、この結果にイギリスの一般紙も「国家的な損失」と報じた。
略歴
1983年5月11日、アメリカのグレンオーク牧場で誕生。
父・リファール、母・ナバホ・プリンセス。
母の名(ナバホ族の王女)に因み「ダンシング・ブレーヴ(踊るインディアン戦士)」と名付けられた。
ハーリド・ビン・アブドゥッラー(サウジアラビア国王のいとこ)が馬主となる。
1985年10月14日、サンダウンパーク競馬場(イングランド)のドーキングステークスでデビューし1着。
1986年は2000ギニー、エクリプスステークス、キングジョージ賞、凱旋門賞などを勝った。
特に凱旋門賞では歴代最高と評価される出走馬たちを相手に、最後の1ハロンが10秒8という末脚を繰り出しレコードタイムで圧勝、高い評価を得た。
インターナショナル・クラシフィケーションにおいて、長らく歴代最高レート141を与えられていた(26年後に改定)。
11月1日、サンタアニタパーク競馬場(アメリカ)でブリーダーズカップ・ターフに出走し、4着に敗れ引退。
1987年に総額約33億円の大型シンジケートが組まれ、ダルハムホールスタッド(アラブ首長国連邦のシェイク・モハメド殿下がオーナー)で種牡馬入り。
しかし同年の秋に不治の病と言われるマリー病に罹患。徹底した投薬治療で何とか命は取り止めたものの、後遺症が残った上受胎率も低下してしまう。加えて初年度産駒がほとんど走らず、体調管理の難しさも相まってダルハムホールスタッドは早くも1991年に売却の検討を開始し、種牡馬からの引退・安楽死処分となるか否かの瀬戸際に立たされてしまう。
同年、名乗りを上げたJRAに購入され、シンジケートの約4分の1に当たる約8億円と言う格安価格で日本に輸出された。
日本への輸出後は日本軽種馬協会へ寄贈されて種牡馬となり、病や治療薬の副作用に苦しみながらも、種付け数の制限や馬房への空調導入による徹底した温度管理、専属スタッフの24時間常駐などによって種牡馬生活を続行。少ない産駒からキョウエイマーチ、エリモシック、キングヘイロー、テイエムオーシャンなど多数の活躍馬を輩出した。なお産駒にはキングヘイローなど気性の激しい馬が多かったが、ダンシングブレーヴ自身は従順で我慢強く、マリー病による痛みに暴れることなくじっと耐えていたという。
ヨーロッパに残った産駒でもコマンダーインチーフやホワイトマズルなどが活躍し、この結果の前にヨーロッパの関係者を「早すぎた輸出だった」と嘆かせたという。
ブルードメアサイアー(母の父)としてはスイープトウショウやメイショウサムソンなどがいる他、産駒のコマンダーインチーフ、キングヘイローなどもGⅠ馬を輩出して種牡馬として活躍した。
1999年8月2日早朝、病状が急変し、午後に心不全のため死去。横になったら最早立ち上がれないと悟っていたのか、立ったまま死んだ。16歳没。
創作への登場
馬なり1ハロン劇場
死亡した際、産駒のコマンダーインチーフやホワイトマズルらを叱るために出演(12巻)。