※現役時代の馬齢は2000年以前の旧表記で記載。
生涯
父ノーザンテースト・母ユアースポート・母父バウンティアス。
社台レースホース所有。オーナーは吉田善哉。
3歳(1985年)
吉永正人を背に8月4日、函館競馬場の新馬戦でデビューしたが2着。
3週間後の8月25日の新馬戦に挑戦し、今度は1着。
鞍上が増沢末夫に代わった12月21日のひいらぎ賞(OP)を勝利、3戦2勝で3歳シーズンを終えた。
以後、引退まで増沢が騎乗した。
4歳(1986年)
クラシックイヤーを迎えたダイナガリバーは、初戦に共同通信杯(GⅢ)を選択。ここも危なげなく勝利し、世代の中心として目されるようになる。
皐月賞では、弥生賞を勝利したダイシンフブキに次ぐ2番人気に推されたが、10着に大敗。
勝ったのは弥生賞2着で、同じ社台のダイナコスモスだった。(なお、ダイシンフブキは7着だった。)
日本ダービーは、トライアルのNHK杯(GⅡ。1995年限りで廃止)を勝利し、「関西の秘密兵器」と呼ばれたラグビーボールが1番人気で、皐月賞馬ダイナコスモスは2番人気、そしてダイナガリバーは3番人気だった。
レースは最終直線で抜け出すと、グランパズドリームの猛追を振り切り、1着でゴールイン。社台グループ初のダービー馬となった。
鞍上の増沢は、1967年のアサデンコウ以来19年ぶりとなるダービー2勝目で、当時48歳での勝利は、2022年に武豊(53歳)に抜かれるまでは最年長勝利記録だった。
ダービー馬となったダイナガリバーは夏は休養に充て、秋の初戦はセントライト記念(この年までGⅢ。翌年よりGⅡ)だが、レジェンドテイオーの4着、続く京都新聞杯(GⅡ。当時は菊花賞トライアル)もタケノコマヨシの4着と、前哨戦は2戦続けて4着に敗れた。
そして、本番の菊花賞。ダイナガリバーは連続4着になったこともあり、ダービー馬でありながら5番人気まで落ちていた。(1番人気はダービーと同じくラグビーボール。)
それでも最後は6番人気だった同枠メジロデュレンに1/2差の2着に入った。
菊花賞の後、ダイナガリバーは第31回有馬記念に出走した。
3番人気はこの年の天皇賞(秋)を制したサクラユタカオーで、ダイナガリバーは4番人気だった。
レースは4番手辺りで先行を窺う位置に付け、最後は抜け出して勝利。ダービーに次ぐGⅠ2勝目を挙げた。
2着は、かつてシンボリルドルフを破り、これが引退レースとなったギャロップダイナだった。
ミホシンザンは3着、メジロラモーヌは9着に終わりこれを最後に引退を表明した。
GⅠ勝利数こそメジロラモーヌより少ないが直接対決に勝ったことから、ダイナガリバーは1986年の年度代表馬に輝いた。
ちなみにこの年までは「優駿賞」で、翌1987年より「JRA賞」となる。
5歳(1987年)
古馬となったダイナガリバーの初戦は、天皇賞(春)のトライアル日経賞(GⅡ)に出走したが、ミホシンザンの3着に敗れた。さらに、天皇賞直前に骨折してしまい、そのまま春シーズンは全休となった。
秋に復帰するも、毎日王冠(GⅡ)はダイナアクトレスの12着(最下位)、連覇を目指した第32回有馬記念は、メジロデュレンの14着(サクラスターオーとメリーナイスが競走中止になったため、完走した馬の中では最下位)と2戦続けて最下位に終わり、そのまま引退となった。
種牡馬時代
引退後は種牡馬となる。
代表産駒は1996年の桜花賞馬ファイトガリバーで、父娘クラシック制覇を達成した。
ファイトガリバーの他には、ナリタタイセイ、インターライナー、ゴーイングスズカが重賞を勝利しているなど、そこそこの成績を残した。
2001年を最後に種牡馬を引退し、功労馬として余生を送る。
2011年10月の時点で昭和時代のダービー馬は4頭残っていたが、シンボリルドルフ(2011年10月4日)→サクラチヨノオー(2012年1月8日)→シリウスシンボリ(2012年4月8日)と相次いで亡くなり、ダイナガリバーは昭和時代のダービー馬で最後の生き残りとなったが、シリウスシンボリの死去から僅か18日後の2012年4月26日、ダイナガリバーは疝痛のため、29歳で亡くなった。
ダイナガリバーの死去により、昭和時代のダービー馬は全員この世を去った。