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1941年10月18日生まれ、鹿児島県串良町(現・鹿屋市)出身。実家は競走馬を生産する吉永牧場で、曽祖父は薩摩藩の馬術指南役を務め、祖父は日本初の開業獣医師を務めたという一家だった。


正人は次男で、兄は実家を継いだが、正人は父のほぼ命令で騎手を目指すようになり、中学卒業とともに馬事公苑の騎手長期養成課程を受けるが落第。そこで父の伝手であり、関東の名調教師である松山吉三郎松山康久調教師の父)の内弟子となり、短期講習生として厩舎の仕事をしつつ騎手デビューを目指した。

そして1961年に騎手デビュー、同期は横山富雄横山典弘の父)・中野渡清一らがいた。


1964年フラミンゴできさらぎ賞を勝ち重賞初制覇するも、当時は保田隆芳野平祐二といった大物やそれに続く加賀武見がおり、中堅騎手としての立ち位置だった。


1969年はタケシバオーの主戦・古山良司が落馬負傷しそのピンチヒッターで英国フェア開催記念(スプリンターズステークス)を勝利し、初のGⅠ級を勝利した。


正人がようやく騎手として開花したのは前述の保田・野平が引退した1970年代になってからであった。師である松山吉三郎とその子松山康久厩舎の主戦として1976年から1978年にかけてシービークインで重賞3勝。この馬がのちに吉永の代表騎乗馬となるミスターシービーを産む。

1977年はギャラントダンサー朝日杯3歳ステークスを勝ち、タケシバオー以来となるGI級を勝利。また、松山康久厩舎初のGⅠ級勝利だった。

1979年はシービークロスタマモクロスの父)で重賞2勝を挙げる。


1980年から1982年にかけてモンテプリンスに騎乗し、1982年の天皇賞(春)を制覇し八大競走を初めて勝利する。


そして1983年、ミスターシービーの主戦として皐月賞を勝って牡馬クラシック初制覇し、その後日本ダービー菊花賞を勝って、史上3人目の牡馬クラシック3冠制覇を達成した。


1984年モンテプリンスの弟モンテファストで天皇賞(春)を勝ち、ミスターシービーで天皇賞(秋)(この年より芝2000mに短縮)を勝ち、騎手として天皇賞春秋制覇を達成した。


1986年3月、記者会見を開いて騎手引退を表明。長年の減量苦によるものも大きかったが、実際は同年ダービーを制するダイナガリバーの騎乗ができなかったためとされている。


引退後は松山厩舎の調教助手を経て1989年調教師となった。調教師転身後もコンスタントに勝利をあげていたが、2006年、胃ガンのため64歳で亡くなった。


逃げか追い込みか極端な脚質が得意だった騎手で、競馬に造詣の深かった作家寺山修司は吉永の騎乗に惚れ込んでいた一人だった。


増沢未夫騎手や南井克己騎手と同様に、騎手としては遅咲きのタイプだった。


作家の吉永みち子は元夫人である。

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