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シービークロス

しーびーくろす

日本の競走馬(1975~1991)。1979年金杯(東)・毎日王冠・目黒記念(秋)の重賞3勝。芦毛の馬体に後方からの鋭い末脚で「白い稲妻」の異名をとった。その異名を受け継いだ、昭和最後のJRA年度代表馬タマモクロスの父としても知られる。
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プロフィール編集

生年月日1975年5月5日
死没1991年4月17日
欧字表記C.B. Cross
性別
毛色芦毛
フォルティノ
ズイショウ
母の父パーソロン
主戦騎手吉永正人
競走成績26戦7勝

北海道浦河町の千明(ちぎら)牧場にて誕生。「シービー」は競走馬のオーナーブリーダーである同牧場が用いる冠名(「Chigira Bokujou」)。

1983年の三冠馬ミスターシービーは、同じ牧場生まれの後輩にあたる。


祖父グレイソヴリンはイギリスの名種牡馬。「グレイ」の名の通り芦毛の毛色で、芦毛を受け継いだ活躍産駒を数多く輩出し、戦後のイギリスにおける「芦毛中興の祖」と評される。

父フォルティノはフランスで生まれた競走馬。引退後母国で種牡馬となり、その後1969年に日本に輸入された。フランス時代の産駒に、1977年のフランスリーディングサイアー獲得のカロ(プレクラスニーの父クリスタルパレス、アドマイヤコジーンの父コジーン、ビワハヤヒデの父シャルードなどを輩出)がいる。


母ズイショウも芦毛の毛色であり、母父はシンボリルドルフメジロアサマサクラショウリなどの父として知られるパーソロンである。


主戦騎手は吉永正人が務めており、現役中は殆どのレースで騎乗(26戦中24戦)している。


※本記事の表記は旧馬齢表記(現在の表記より+1歳)を用いる。

戦績編集

3~4歳編集

1977年(3歳)、美浦トレーニングセンター・松山吉三郎厩舎からデビュー。3戦目で初勝利を挙げる。


1978年(4歳)のクラシック三冠戦線では、皐月賞ファンタストの10着、日本ダービーサクラショウリの8着に敗退。当時、ダービーに出られなかった・敗退した馬が出走することが多く「残念ダービー」と揶揄されることもあった日本短波賞(現GⅢ・ラジオNIKKEI賞)でも3着に留まり、4歳春を終えた。


夏の休養を経て、クラシック最後の一冠菊花賞を目指し、秋はセントライト記念から始動。ここをサクラショウリの3着として菊花賞の優先出走権を確保したが、美浦から京都競馬場へと向かう直前に発熱、出走を諦めざるを得なかった。

5歳での本格化編集

1979年(5歳)、年初の金杯(東)(現GⅢ・中山金杯)にて、最終直線で後方からの鋭い末脚をみせ重賞初制覇。


4月の天皇賞(春)でも、後方待機から最終コーナーで追込をかけたが、前方集団が壁になって外に持ち出さざるを得ず、この分のロスが響いて勝ったカシュウチカラから1馬身半差の3着。

(結果的に、これが現役を通じて八大競走では最も惜しい結果であり、八大競走の栄冠には手が届かなかった。)


秋戦線では、9月の毎日王冠、11月の目黒記念(秋)と2戦連続のレコード勝ちで重賞2連勝。

芦毛の馬体が最終直線で後方から鋭く飛んでくる姿から「白い稲妻」の異名が定着した。

故障に泣いた現役晩年編集

重賞2連勝の勢いを駆り、天皇賞(秋)を目指し調整が進められていたが、ここで右前脚の繋靭帯炎(けいじんたいえん)が発覚する。


の脚先は中指のみが大きく発達し、残り4本の指は退化・消滅した形をとっている。繋靭帯はヒトで言えば手のひらと指のつけ根(第三関節)を繋ぐ靭帯。馬が走る際のショック吸収を担う部位であり、その炎症は馬の走行能力に重大な影響を及ぼす。繋靭帯炎で引退した馬には、他にメジロマックイーンアドマイヤベガなどがいる。


治療休養を経て1980年(6歳)の4月から復帰するが、末脚のキレは戻らず、天皇賞春4着、秋は11着。


再度の繋靭帯炎発症で1年以上の治療を経て1982年(8歳)4月に復帰、復帰戦のオープン競走に勝利するが、次走の日経賞を繋靭帯炎の悪化により出走取消、これをもって引退。


1983年1月16日、“太陽の王子”モンテプリンスとの合同引退式が執り行われた。複数頭での合同引退式は異例のこと。


種牡馬入り後編集

引退後は北海道・新冠町の農協畜産センターにて種牡馬入りしたが、近縁から欧州のリーディングサイアーも出ている血統にもかかわらず、当初の評価は低かった。重賞3勝とはいえ八大競走の勝ち鞍はなく、何より未だ「芦毛の馬は走らない」という価値観が支配的だった時代である。


しかし1987年、二世代目産駒のシノクロスが京成杯3歳ステークス(現GⅡ・京王杯2歳ステークス)、テレビ東京賞3歳ステークス(現GⅢ・フェアリーステークス)と重賞を2勝。

そして初年度産駒の一頭であり、4歳秋まではダート戦線の条件馬に過ぎなかったタマモクロスが、芝路線に切り替えるや覚醒。87年1冬の鳴尾記念から翌年春にかけてGⅠ2勝(天皇賞(春)宝塚記念)含む重賞5連勝(条件戦含め7連勝)と快進撃を続け、天皇賞(秋)ではオグリキャップとの「芦毛頂上決戦」をも制して史上初の天皇賞春秋連覇と重賞6連勝(当時のJRAタイ記録)を達成。同年の年度代表馬に選出された。

タマモクロスは父の異名を継ぎ「白い稲妻」、または「稲妻二世」と呼ばれた。

タマモクロスの活躍で、一気に種牡馬として人気となり、種付け料は300万を越える程にもなった。


その後も、重賞3勝のホワイトストーンなどが産駒から出ている。


1991年4月17日、馬房で首を折って死んでいるのを発見された。17歳没。

前日にも種付けをこなしていた中の突然のことであり、当初は事故死と見られたが、検死解剖の結果内臓がメラノーマ(皮膚ガンの一種で、葦毛馬に起きやすい病)に冒され、それが脳に転移し血管が破裂したことが死亡の直接の原因と判明した。墓は農協畜産センターの一角に建てられたが、後に畜産センター閉鎖を受け、同町の優駿メモリアルパークに改葬されている。


関連項目編集

競馬 競走馬 種牡馬 白い稲妻 タマモクロス

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