概要
68世代の競走馬で、JRAの顕彰馬の1頭。史上初の1億円ホースでもある。
父は後にリーディングサイアーとなるチャイナロック。母はオセアニア系血統のタカツナミ。幼名は「ハヤテロック」。
芝1200m、芝1600m、ダート1700m、ダート2100mでレコードをマークし、更に八大競走の1つ「春の天皇賞」(芝3200m)も制するなど、距離も芝ダートも馬場状態も斤量も問わない、という最強のオールラウンダー。
主戦騎手は中野渡清一(新馬~弥生賞)、森安弘明(春のクラシック)、古山良司(古馬)
新馬
1967年、新潟競馬場でデビュー。2着2回の後、3戦目の函館競馬場で初勝利。5、6、7戦目を3連勝して関東の2歳最強決定戦「朝日杯3歳ステークス」に駒を進めると、2着に7馬身差をつける圧勝で制し、重賞初制覇。
クラシック~シルバーコレクター
1968年、東京4歳ステークス(ダート1700m)は8馬身差でレコード勝利。弥生賞はアサカオーに敗れ2着、スプリングステークスではマーチスの2着。以降、タケシバオーとマーチス、アサカオーの3頭が三強と呼ばれるようになる。
皐月賞はマーチスの2着、NHK杯マーチスの2着、日本ダービーは伏兵タニノハローモアの2着。
初のアメリカ遠征
その後、アメリカのレース「ワシントンD.C.インターナショナル」の招待を受けて海外遠征を敢行。菊花賞を蹴っての大胆な挑戦だったが、レース中にイギリス二冠馬サーアイヴァーと接触する不運なトラブルが影響し、8頭立てで最下位8着に終わった。
帰国後、年末の有馬記念のファン投票で3位に選ばれたが、出走は回避した。
古馬~最強のオールラウンダー
1969年、初戦の七草ステークスで2着に終わり、アメリカ遠征を除いて7戦連続2着に。しかし東京新聞盃(ダート2100m)を6馬身差のレコードタイムで勝利すると、ここから破竹の連勝が始まる。
続くダート1700mのオープン戦では斤量60kgを背負いながらレコードタイムで勝利。このタイムは以降破られることがないまま、2003年に東京競馬場の改修でコースが消滅したため、永遠のコースレコードとなっている。
京都記念では同じく斤量62kgで勝利。更に阪神競馬場のオープン戦(芝1600m)でもレコードタイムで勝利。
4連勝で挑んだ春の天皇賞(芝3200m)ではライバルのアサカオーに2馬身差をつけて勝利し、八大競走を初制覇。
夏のグランプリ宝塚記念は熱発で回避することになってしまったが、ジュライステークス(芝1800m)では生涯最高となる65kgもの斤量を背負いながらも勝利。主戦騎手だった古山良司は「(タケシバオーが)一番強いと思ったのがこのレース」と回想している。
夏の休養を挟んで、秋の毎日王冠(ダート2100m)に出走。斤量62kgを背負いながらこれを制し、史上初の生涯獲得賞金1億円突破を達成した。
そして再びのアメリカ遠征を睨み、前哨戦として「英国フェア開催記念(第3回スプリンターズステークス。この名称は1回限り)」(芝1200m)に出走。主戦の古山騎手が落馬負傷のため吉永正人騎手が手綱をとったが、タケシバオーはそれを物ともせずに前年の有馬記念馬リュウズキを1馬身3/4ちぎり捨て、レコードタイムで勝利。
アメリカ遠征リベンジ、しかし…
こうして8連勝(うちレコード4回)という堂々たる実績を引っさげ、昨年に引き続いて再び「ワシントンD.C.インターナショナル」に挑戦。しかしタケシバオーは渡米後に熱発。本番当日もこれが国内レースならば回避するレベルの状態で、大差の最下位7着と惨敗に終わった。
体調は帰国後も全く戻らず、ファン投票2位に推されていた有馬記念の出走を断念して引退。1969年の年度代表馬に選出され、翌2月22日に東京競馬場で引退セレモニーが行われた。
生涯戦績:29戦16勝、2着10回、3着1回。
生涯獲得賞金:1億1365万円(当時史上最高額)。
着外2回はいずれもアメリカ遠征であり、国内では複勝圏を外したことは1度もなく、連対はずしも1度しかない。
引退後
引退後は故郷の競優牧場で種牡馬となる。父と同じく当初は注目されなかったが、産駒成績が伸びるごとに種付け頭数は増えていき、一流種牡馬に負けないほどになった。
代表産駒は6年連続重賞制覇(JRA最多記録)のドウカンヤシマ、南関東三冠馬ハツシバオーなど。
母父としては史上2頭目の地方競馬出身皐月賞馬ドクタースパートがいる。
1992年1月、心不全のため27歳で永眠。
2004年、テイエムオペラオーとともにJRA顕彰馬に選出された。
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アグネスデジタル…マイル~中距離なら芝ダート問わず中央、地方、海外でGⅠ勝利を果たしたオールラウンダー。