クリフジ
くりふじ
1940年生まれの競走馬。戦時中に活躍した。
史上初の史上唯一となるクラシック変則三冠(東京優駿競走、阪神優駿牝馬、京都農林省賞典四歳呼馬)を達成。史上2頭目のダービー牝馬にして史上初の菊花賞牝馬でもある。古い時代の馬だが、記録ずくめの競走馬であった。
出走全レースで一番人気に推され、まだ見習いだった若干20歳の前田長吉騎手を鞍上に11戦11勝無敗。7戦で2着に10馬身以上の差をつけた。
現在も「国営 → 中央競馬」での11戦11勝は生涯無敗の最多記録である。
半ば忘れられた名馬だったが、2007年にウオッカがクリフジ以来64年ぶりに牝馬によるダービー制覇を達成したことで注目が集まった。
ちなみに他にも同名の馬が3頭おり、2代目は1955年生まれ、3代目は1961年生まれでアングロアラブ馬、4代目は1991年生まれのばん馬で、重賞最多勝記録を持っているオレノココロの母の父でもある。
父のトウルヌソルは1927年、下総御料牧場がイギリスから輸入した種牡馬で、6頭のダービー馬を輩出(ディープインパクトに次ぐ歴代2位)している。
母の賢藤は小岩井農場が輸入し一大牝系を築いた英国産の名牝アストニシメントと英国産大種牡馬チヤペルブラムプトンの仔。
全兄に1936年の帝室御賞典(東京)を制したリヨウゴク、1937年秋の帝室御賞典を勝利した"初代天皇賞馬”ハツピーマイトがいる。
何分古い時代の馬なので分かりにくいが、いわばクリフジは「日本黎明期を支えたトップクラスの名種牡馬」と「数いる繁殖牝馬の中でもトップクラスの繁殖成績を誇る超名繁殖牝馬」との間に産まれた由緒正しい、かつ当時としても今としても「もうこれ以上の血統は無い」「この血統で走らないのは有り得ない」というレベルの一流血統なのである。だからといってここまで走るとは当時誰も思ってはいなかっただろうが。
クリフジの馬主は栗林商船社長でオーナーブリーダーの栗林友二氏。勝負服は『青地、赤袖、茶襷』。
クリフジは幼名の「年藤」の名でセリ市に出されたが、この時点で蹄に問題を抱えていた。しかし、友二氏は顔を見た瞬間に「これは良い馬だ!」と感じ、引退後の買い戻し条件も飲んで、大枚4万円(※1)を叩いて購入した。
余談ではあるが、クリフジの後も「クリ」の冠名をつけた馬は多く活躍。1977年に友二氏が亡くなった後は低迷が続いていくことになるが、子息の栗林英雄氏が後を継ぎ、1990年代に同じ勝負服を纏ったライスシャワーが、栗林家にクリフジ以来の菊花賞勝利をもたらすことになる。
※1 当時のダービーの1着賞金が1万円なので、4万円はかなりの大金である。ただ、このセリではクリフジより高い6万円の値がついた馬が2頭いた。それが後に出てくるトシシロとヒロサクラである。
3歳(旧4歳)春
脚部不安のためにデビューが遅れ、クラシック初戦の「横浜農林省賞典四歳呼馬(皐月賞)」「中山四歳牝馬特別(桜花賞)」には間に合わなかった。
所属した尾形景造(尾形藤吉)厩舎の主戦騎手だった保田隆芳らが太平洋戦争に出征していた事情もあり、鞍上は見習いの前田長吉騎手が務めることになった。
5月16日、新呼馬(※1 新馬戦)でデビュー。見習いの前田騎手が鞍上にもかかわらず一番人気に推され、2着トシシロとは1馬身差の勝利で初戦を飾った。これが彼女の最小着差勝利となる。
※1 「呼馬」とは馬主が生産者から直接購入した馬(自由購買馬)のこと。当時は「抽籤馬」と区別されており、呼馬限定戦も多かった。
しかし、続いて中1週で出走した2戦目の牝馬限定戦(4歳呼馬勝入牝馬)で誰もが度肝を抜かれた。桜花賞を制したミスセフトに10馬身以上の大差をつけて圧勝してしまったのである。
そして連闘で出走した「東京優駿競走」(現・東京優駿。当時はまだ〈日本ダービー〉の副称はない)でも、鞍上が見習いにもかかわらず、並み居る牡馬達を差し置いて一番人気に推された。
しかし、スタートでは経験の浅い前田騎手のミスでロープ(バリヤー)が下りた瞬間にそっぽを向き、完全に出遅れてしまった。フルゲート20頭を超える時代のダービーは「10番手以内(ダービーポジション)につけなければ勝てない」と言われており、最後尾からのスタートというこれ以上無い不利を被ってしまったクリフジだったが……
そんな不利など関係ないと大外を走り続け、バックストレッチから第3コーナーにかけてポジションをスルスルと上げていくと、レースを引っ張っていたキングゼヤ(14番人気)、フジハヤ(3番人気)、イチシウスイ(12番人気)らを直線で一気に交わし、残り200mだけで6馬身千切ってのレコード勝ち。
その速さは圧倒的で、突然他の馬の脚音が聞こえなくなった前田騎手が不安にかられ、何度も後ろを振り返っている程。
この強さから、管理する尾形藤吉調教師はクリフジの力を
「古今を通じて、これほど強い牝馬はいないという巴御前のよう」
と評した。
3歳(旧4歳)夏
夏の休養を挟んで9月25日、初の古馬混合戦となる古呼馬に出走し、前年の菊花賞馬ハヤタケ(シンザンの母父)を3馬身千切り捨てた。
そして当時は秋に阪神競馬場(鳴尾競馬場)で行われていた「阪神優駿牝馬(現・優駿牝馬)」に連闘で出走。もはや牝馬限定戦では勝負にならず、再びミスセフトを10馬身突き放す大圧勝。牡牝混合クラシック二冠(変則二冠)はこれが史上初の記録となる。
10月、古呼馬を2戦(京都芝2000、京都芝2600)走り、それぞれ63kg、62.5kgの斤量を背負っていずれも10馬身差の圧勝。
そして本番の「京都農商省賞典四歳呼馬(現・菊花賞)」を迎えたが、60kg以上のトップハンデを苦にせず古馬相手に大差をつけてしまうクリフジを相手に、斤量ハンデなしで同世代の馬がかなうわけがない。
4歳(旧5歳)
年が明けて1944年。当時は戦時中であり、戦況悪化を受けて馬券発売を伴う開催は中止。レースは種牡馬、繁殖牝馬を選定する「能力検定競走」として実施された。出走馬の質も量も低下し、10頭立てを超えたのは僅か3回という有様。
クリフジは無茶苦茶なローテーションも斤量も牡馬相手も苦にせず3連勝。ラストランの古馬重賞「横浜記念(春)」はレコード勝利のおまけ付き。
その後は「春の帝室御賞典」に出走する予定だったが、京都への輸送で風邪をひいてしまい、熱発で出走回避。そのまま引退し、繁殖入りすることになった。
余談ではあるが、この春の帝室御賞典を制したのが、菊花賞でクリフジに大差をつけられた2着馬ヒロサクラ。この結果も、如何にクリフジの能力が傑出していたかを示している。
クリフジは引退後、幼名の『年藤』の名で繁殖入り。当初は故郷の下総御料牧場にいたが、1945年7月7日の千葉空襲を受けて日高(北海道)へ移った。
代表産駒は母娘オークス制覇を達成した二冠牝馬ヤマイチで、交配相手は新呼馬でクリフジに1馬身差まで粘ったトシシロだった。その他にもイチジヨウ、ホマレモンなど優れた産駒を輩出している。
1964年、老衰により25歳で死亡。奇しくも、この年はシンザンが戦後初の三冠馬になっている。
年藤の牝系は産駒のイチジヨウから続き、きさらぎ賞に勝利したサムソンビッグや地方重賞を10勝した園田のエースオオエライジン、そしてその妹であるエンジェルツイート等がおり、エンジェルツイート最後の産駒にして唯一の牝馬であるエンジェルパイロ(父パイロ)は2023年に繁殖牝馬となり、ルヴァンスレーヴの子を受胎している。
(エンジェルツイートは初子を出産した際、難産によって肛門が破れてしまい、一時は瀕死の重体に陥った程だったという。結局エンジェルパイロが産まれ後継が出来た事や、体に限界が迫っていた事もあってか現在は繁殖を引退し、余生を過ごしている。)
前田長吉騎手の悲劇
クリフジを駆った前田長吉騎手は徴兵されて満州に赴き、戦後はソ連の捕虜となってシベリアへ抑留。帰国できぬまま1946年に23歳で病没。2005年に抑留者の墓の遺骨のひとつが前田のものと判明。日本の遺族のもとに戻り、現在は墓に納骨されている。
長吉騎手自身は非常に筆まめな人物で、彼が書き残したメモや手紙などが彼の親族や知人たちによって多数発見されている。
戦時中、非常に貴重だった配給品の砂糖を「砂糖湯にでもしてクリフジに飲ませてあげてほしい」と送ったり、他にもクリフジの様子や体調に細かく気を配ったりするなど、つきっきりでクリフジの世話をしていた。
また「クリフジは日本一の馬です」「クリフジならどんなレースでもたいがい1着になれると思います」とクリフジの事を評している。
彼が遺したメモの中には「ヨシサカエ」という尾形厩舎所属の牝馬の名前も確認できる。どうもクリフジの帯同馬だった様である。またクリフジ不在の皐月賞(勝者はダイヱレク)に出走していた事が確認できるほか、クリフジの勝利したオークスにも出走している事から、八大競走に出走できる程度には優秀な成績を収めていた馬だった様である。(因みに皐月賞は7着、オークスは6着に終わった。)
また、当時満州に駐留していた友人に自身のダービー優勝の記事が載っている「優駿」と礼状(葉書)を送るなど、友達想いの人物であった事もうかがえる。駐留していた友人はかつて同厩舎で働いていた人物であったと推測されている。
クリフジを育てた尾形藤吉調教師は、自らが育てた先輩ダービー牝馬ヒサトモの方を高く評価していたようで、「クリフジの強さをもってして、当時のヒサトモには一歩譲る他なかったのでは」と述べている。
一方、尾形師の弟子であり、自らも三冠馬シンボリルドルフを育てた名伯楽・野平祐二調教師は、「優駿」の「日本競馬史上最強馬は?」とのアンケートに迷わずクリフジの名を挙げている。
競馬評論家の大川慶次郎氏はクリフジの馬体については事あるごとに「あれは良くない」としていたが、その強さは大いに認めており「名馬は馬体を問わない」と評している。
クリフジは「ベコけつ」という牛の様に平たく大きな尻を持っており、サラブレッドらしい曲線美に欠ける馬体だった。よく馬体が悪いと言われるのも、そのベコけつが原因だろう。
曲線美に欠けるだけで、筋力が長く速力が出るという大きな利点もあり、もしかするとそのベコけつこそが彼女の驚異的な足の起点だったのかもしれない。
余りにも尻がデカいので、尾形調教師含め周りの人から「うしども」と呼ばれていたのだとか。
また、クリフジは並外れた巨体の持ち主であり、ダービーの翌日の測定では体高がなんと164cmもあったのだとか。当時の牡馬の平均体高は158cmである。
更に彼女は前腕部もかなり発達しており、当時の牡馬の平均であった41.1cmを有に上回る50cmもあったという。この並外れた前肢の筋力こそが、彼女の異常な脚力の源だったのではないかと思われる。彼女を知る人によれば、馬体重は有に500㎏はあったとか。今にしても馬体重が500kgある牝馬は中々大柄である。
ダービーの翌日という事は当時4歳(3歳)でまだまだ伸び盛りであっただろうから、最終的には170㎝近く成長したのかもしれない。
史上初
クラシック変則三冠
史上唯一の記録。牡馬クラシック「東京優駿」、牝馬クラシック「優駿牝馬」、クラシック最終戦「菊花賞」を制覇。
ダービーと菊花賞の二冠
クラシック二冠馬かつ牝馬二冠馬
牡牝混合クラシック二冠馬(変則二冠)
上記ブラウニー、1947年皐月賞&優駿牝馬のトキツカゼの3頭。
菊花賞牝馬
他は上記ブラウニーのみ。
菊花賞大差勝利
史上唯一の記録。
クラシック大差勝利
他にトキツカゼの1947年優駿牝馬、テスコガビーの1975年桜花賞の3頭。
母娘オークス制覇
ヤマイチと達成。ヤマイチはオークスを6馬身差での大楽勝であり、69年後のリバティアイランドまでオークスを6馬身で勝利した馬はいなかった。この母娘の他にはダイナカールとエアグルーヴ母娘がオークス母子制覇を達成している。
ヤマイチの二冠はいずれも八木沢勝美騎手の騎乗であり、八木沢騎手は前田長吉騎手の兄弟子であった。
母娘2代二冠牝馬
こちらもヤマイチと達成。ヤマイチの桜花賞は母の期待を背負って一番人気に押されたハナ差での勝利であり、母の逃した桜花賞を戴冠するための、まさに執念の勝利であった。母子二冠牝馬を達成しているのは現在においてもクリフジ母娘のみである。
因みにクリフジが出走しなかった皐月賞に息子ホマレモンが参戦しており、レコード決着の激戦の末、5着に粘っている。
牝馬のクラシック3勝
歴代三冠牝馬の三冠目(エリザベス女王杯もしくは秋華賞)はいずれも3歳限定戦(エリ女は後に古馬解放)ではあるが、あくまでもクラシックではない。その為クラシックを3勝しているのはクリフジのみである。(現在においても牝馬クラシック三冠の路線は桜花賞・オークス・菊花賞である)
その他
11戦11勝無敗
日本競馬史上最高記録。中央10勝以上での無敗馬は、クリフジのダービーレコードを更新した二冠馬トキノミノル(10戦10勝)のみ。
ダービー牝馬
牝馬によるダービー制覇は彼女を含めわずか3頭で、ヒサトモに続く史上2頭目。次のダービー牝馬は2007年ウオッカまで64年かかった。
キャリア3戦でのダービー制覇
戦前は何頭か存在するが、クリフジの後は53年後、1996年のフサイチコンコルドしか存在しない。
平均着差7.36馬身以上
11戦の合計着差が81馬身以上。10馬身以上差がついた「大差」レースが3戦あるため、正確にな着差はもっと広がる。参考までに、同じ無敗馬のマルゼンスキーの記録が8戦合計61馬身、平均着差7.625馬身。
八大競走大差勝利
ヒサトモの1938年帝室御賞典(秋)に続く史上2頭目。他は上記の「クラシック大差勝利」2頭に加え、ヒカルタカイの1968年天皇賞(春)の史上5頭。
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