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ライスシャワー(競走馬)

らいすしゃわー

日本中央競馬会(JRA)に所属していた競走馬(1989-1995)。主な勝ち鞍は1992年の菊花賞、1993・1995年の天皇賞(春)(以上GⅠ)。長距離レースを中心に成績を収めたステイヤーであり、日本競馬史上最高の「ヒール」と称される。1995年度JRA賞特別賞受賞。
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誘導

※当馬をモデルとするウマ娘については「ライスシャワー(ウマ娘)」を参照。


なお、ライスシャワーのみでは他の用途も存在するため、競走馬のライスシャワーはこちらのタグを使用することを推奨。


概要

※馬齢・レース名は現役当時(旧表記)のもので記す。


'93年 天皇賞(春)

極限まで削ぎ落とした体に、鬼が宿る。

王者・メジロマックイーンの三連覇を阻んだ、漆黒のステイヤー

ヒールか、ヒーローか。悪夢か、奇跡か。

その馬の名は…

― JRAプロモーションCM 「The WINNER 天皇賞(春)編」 より


1989年に生まれ、1995年に死亡した日本の競走馬(92世代)。

1992年の菊花賞でミホノブルボン無敗クラシック三冠達成を、1993年天皇賞(春)にてメジロマックイーン同レース三連覇を、それぞれレコードタイムで阻止したことから「関東の黒い刺客」「レコードブレイカー」などの二つ名で呼ばれた。

その後成績は低迷するも、7歳(現6歳)時の1995年に挑んだ天皇賞(春)にて2年ぶりに勝利。同年の宝塚記念のファン人気投票で1位となり同レースに出走するも、レース中に故障を発生して予後不良の診断が下され、安楽死処置を受けた。


前に挙げた有力馬二頭、特に長距離レースに於いて現在も最強と謳われるメジロマックイーンを破った程の長距離レースに於ける高い実力や、そのドラマチックな経歴や悲劇的な最期などから現在に至るまで人気の高い競走馬の一角となっている。


生涯

誕生~3歳時代

1989年3月5日、北海道のユートピア牧場で誕生。

父は桜花賞馬シャダイカグラを輩出したリアルシャダイ、母ライラックポイント、母の父が生涯無敗のまま引退し、菊花賞馬レオダーバン等を輩出したマルゼンスキーという良血馬だった。

生まれた直後から小柄な体格ながらも優れた身体能力を発揮しており、様々な所から購入の申し出があったものの、当時の牧場の代表であった栗林英雄が生産馬を自分の馬にする「オーナーブリーダー」であったため、それらの申し出を全て拒否したため、そのまま英雄の馬となった(奇しくも戦前の最強牝馬クリフジは英雄の父・栗林友二の所有馬で、勝負服『青服・赤袖・茶たすき』も共通していた)。

その後、馴致育成のため千葉県の大東牧場へ移動されたが、ここでも高い身体能力を発揮し、人間の言うことをよく聞く馬だったこともあり、馴致に手がかからず育成はサクサクと進んでいった。

英雄ら栗林家の人々は何としても、この仔馬を競走馬にさせるべく、トレセン関係者に交渉し始めたが、牝馬と見間違えるほどの小柄な体格が不安視されて交渉がまとまらず、所属厩舎が中々見つからなかった。


そんな最中、転機が訪れたのは1991年のこと。

美浦トレーニングセンターに所属する飯塚好次調教師がただ一人手を挙げ、そのまま飯塚厩舎に入厩が決まった。飯塚は心臓の音の大きさに注目して、この仔馬が競走馬としての素質を充分に持ち合わせていると判断したという。

そして、「この馬に触れた人に幸福が訪れるように」という意味を込め、「ライスシャワー」と名付けられた。


1991年 デビュー・3歳戦

当初、ライスシャワーのデビューには7月の札幌競馬場の新馬戦が予定されていた。

しかしこの新馬戦の前に熱発を起こし、レースを回避。デビューは1か月後にまでずれ込み、新潟競馬場でのデビューとなった。

この時の鞍上には、飯塚厩舎の専属騎手である水野貴広(現・調教師)が迎えられた。

単勝オッズ3.1倍の2番人気だったが、1番人気のダイイチリユモンをクビ差で制し、1着。

デビュー戦を勝利で飾ったライスは、早速重賞競走のGⅢ新潟3歳ステークスに出走するも、出遅れが響いてユートジェーンの11着と大敗。

次走であるオープン特別・芙蓉ステークスはアララットサン(エアグルーヴの従姉でオマワリサンの祖母)とのアタマ差の勝負を制したが、直後に骨折が発覚し、休養に入ることとなった。


1992年 牡馬クラシック

休養から復帰したライスシャワーは、皐月賞トライアルのGⅡスプリングステークスに出走(このときの鞍上は柴田政人)。

このレースにおいて、朝日杯3歳ステークス優勝馬で、ライスにとってライバルの一頭となるミホノブルボンと始めて対戦するも。ブルボンは8馬身ぶっちぎりの圧勝であり、ライスは4着だった。

本番の皐月賞においては、的場均を鞍上に迎えるも、8着と完敗。これ以降はほぼ全てのレースで的場が主戦を務めるようになった。

ライスに騎乗する以前から的場は、飯塚の恩師であった大久保房松の門下生同士の繋がりから、度々飯塚厩舎の管理馬に騎乗して数々の重賞を制してきた。


その後のダービートライアルのGⅡNHK杯においても、着外に沈むなど大敗が続いたため、本番の日本ダービーでは16番人気という超低人気だったが、マヤノペトリュースとの接戦で2着に入った。


1着であったブルボンには4馬身差をつけられたものの、この日本ダービー2着を機に、ステイヤーとしての頭角を本格的に現し、徐々に競馬ファンからの関心を集めるようになる。

そして、ライスは日本ダービー後の夏場に休養に入り、秋シーズンへ向けて着々と力を蓄えていった。


秋になると、ライスは菊花賞のトライアル競走GⅡセントライト記念と、GⅡ京都新聞杯へ出走。

セントライト記念では的場が函館3歳ステークスに騎乗したことから田中勝春が代打騎乗しており、レースはレガシーワールド(のち1993年ジャパンカップ優勝)の2着、鞍上が的場に戻った京都新聞杯ではブルボンの2着と惜敗するも、1馬身半差と以前よりも着差は迫っていた。

レース後、的場は馬主の栗林夫人に「逃げ馬のキョウエイボーガン(神戸新聞杯馬)が出走して、ミホノブルボンの先頭を奪えるようなら、ミホノブルボンを負かせるチャンスはあります」と語り、いよいよクラシック菊花賞へと参戦することとなった。


菊花賞


遂に迎えた、第53回菊花賞。

レース当日、競馬ファンのほとんどがミホノブルボンへと関心を向けていた。ここまで無敗であるブルボンがこのレースに勝てば、「皇帝」シンボリルドルフに次いで2頭目となる無敗の3冠馬となると期待されていたためであった。

もちろん1番人気はブルボンであったが、ライスはそれを追う単勝オッズ7.3倍の2番人気だった。


そして、レースが始まり、まず神戸新聞杯勝ち馬・キョウエイボーガンがハナを奪い、ライスは5番手辺りで速度を上げていった。

2周目の最終コーナーでキョウエイボーガンが失速すると、ブルボンがすかさず先頭へ躍り出た。


ようやくここで、ようやくここでミホノブルボンが先頭に立った!

 ミホノブルボン先頭で第4コーナーをカーブする! あと400メートルか!

 『どっからでもなんでも来い!』という感じか、ミホノブルボン! ミホノブルボン!


多くの観客が、そのままミホノブルボンが先頭でゴールすると期待していたその途端……。


ライスシャワーが襲い掛かってくる! 外からライスシャワー!外からライスシャワー!

 黄色い帽子はマチカネ!黄色い帽子はマチカネタンホイザ! さぁ、ミホノブルボン、逃げる逃げる!

 外からライスシャワー! ライスシャワーかわしたか!ライスシャワーかわしたか!

 内からマチカネ!内からマチカネ! あ~ライスシャワー先頭に立った!

 ミホノブルボンは3冠にならず~! ライスシャワーです!ライスシャワーです!


直線半ばで外側からライスシャワーが飛び込んできた。

ライスは、そのままブルボンを差し切り、内側からほぼ同時に差しに入ったマチカネタンホイザをも振り切って1着でゴールイン。これまで後塵を拝し続けたブルボンに遂に競り勝った。

ライスは、ようやくクラシックを制覇し、さらにはレコードタイム・3分5秒0を叩きだした。

まさしくこの瞬間、飯塚たちが見出したステイヤーとしての才能が花開いたのである。


ところが、ブルボンの無敗3冠を期待していた観衆は、これまでブルボンに負け続けていたライスにその夢を阻まれてしまったこともあり、素直にライスを祝福することは出来なかった。

スタンドからはライスを祝福する歓声どころか、3冠を阻まれたブルボンへの同情とライスに対する怒りにも似た感情が入り混じったどよめきも響いていた。


このとき関西テレビで実況していた杉本清アナウンサーも、


あぁ~っという悲鳴に変わりましたゴール前!あぁ~っという悲鳴に変わりましたゴール前!

 昨年のレオダーバンとおんなじように、ダービーの2着馬が菊花賞を制しました!


と実況している。

このときからライスには、ある種の「ヒール」役が定着することとなる。


その後ライスは有馬記念に出走し、2番人気に推されたものの、レースでは再結成を果たしたメジロパーマーダイタクヘリオスの大逃げコンビに10馬身以上の差を付けられ、8着に終わった。

なお、レースの結果は最終的にダイタクヘリオスが失速し、メジロパーマーが逃げ粘って、2着のレガシーワールドとの接戦の末に勝利している。なお、3着は前年に続いてナイスネイチャであった。


1993年 5歳戦

1993年、古馬となったライスシャワーは、GⅡ目黒記念に出走するが、以前に下したマチカネタンホイザに敗れて2着止まりとなった。

しかし、次走のGⅡ日経賞では1番人気に支持され、2着のイタリアンカラーに2馬身半の差をつけて快勝した。


そして、陣営はライスシャワーをある古馬の最高峰のGⅠ、3200mの長距離を走りぬく過酷なGⅠ、天皇賞(春)である。


天皇賞(春)


ライスシャワーは、日経賞での勝利を手土産に天皇賞へと出走するが、この年の天皇賞にはある強敵が存在していた。

それは、単勝オッズ1.6倍。驚異的な人気を得て春の天皇賞3連覇を狙う「最強のステイヤー」・メジロマックイーンである。

天皇賞(春)2連覇に加え菊花賞も制している、名実ともに現役最強のステイヤー。

そんな馬が、春の天皇賞3連覇という大偉業をかけて出走してきたのだ。


また、マックイーンの主戦騎手である武豊も、1989年イナリワンで初勝利を挙げて以来4年連続で勝利していたこともあり、普通の方法ではマックイーンと武のコンビに太刀打ちできないと飯塚たちは判断、ライスには「マックイーンに勝つ前に壊れるのではないか」と言われるぐらい過酷なスパルタ調教を徹底的に施した。

その結果、当日の馬体重は430kgまで減少。日経賞から-12kgもの体重減であり、限界まで体を絞ってきた。


そして始まった天皇賞。

前年の有馬記念を制したメジロパーマーが相方不在のまま大逃げを打つと、武の操るマックイーンはそれに追走し2番手。ライスは両馬、特にマックイーンをマークしながら走っていた。

そして、パーマーの失速と同時に先頭に立ったマックイーン。ここでライスはすかさず仕掛けていった。

最終的に、抜け出したライスがマックイーンに2馬身半の差をつけて勝利。マックイーンの3連覇(そして武にとっての5連覇)を阻止した上にレコードタイム3分17秒1を叩きだし、見事に春の盾を手中に収めたのである。

この時、実況した杉本アナは「関東の刺客、ライスシャワー!!」というフレーズを使用した。

前年に勝利したミホノブルボン、そして今回勝利したメジロマックイーンの2頭はともに栗東トレーニングセンター、つまり関西の馬だったのである。

それら関西の馬の記録をことごとく阻んだことから、ライスには「関東の刺客」の異名が付いてしまった。


ところが、そのときの疲れが響いたせいか、秋シーズン以降は大きく調子を落とし、秋初戦のGⅢオールカマーではツインターボに大差での逃げ切りを許しての3着を皮切りに、天皇賞(秋)6着、ジャパンカップ14着、有馬記念でもトウカイテイオーに大差を付けられて8着と低迷した。


1994年 6歳戦

翌年、6歳となってもライスシャワーはGⅡ京都記念5着、GⅡ日経賞2着と勝ちきれず、天皇賞(春)への調整中に右前管骨を骨折してしまう。

競走馬としてやっていけるかが危ぶまれる程の重傷であり、一時期は引退も検討された程である。

しかし、長距離でしか結果を残していない上に小柄な馬体だったため、種牡馬としての受け入れ先は見つからず、現役続行となった。

その後体勢を立て直し、休み明けのぶっつけ本番で年末のグランプリ有馬記念に出走、ここでは同年の三冠馬ナリタブライアン、当時マル外最強牝馬と称されたヒシアマゾンに次ぐ3着で、古馬最先着と復調の気配を見せた。

しかし、ただで転ばないのがレコードブレイカーと呼ばれる所以。

このレースには、それまでの有馬記念で1991年から3年連続3着の珍記録を持つナイスネイチャも出走していたが、ライスは有馬記念4年連続3着というナイスネイチャの大異業を見事に阻んでいたのである。


1995年 7歳戦

翌年、7歳となってもライスシャワーは勝ち星に恵まれず、去年に続いて参戦したGⅡ京都記念・GⅡ日経賞両レースでも入着外の6着に敗れてしまう。


天皇賞(春)

ライスの引退を危ぶむ声が高まっていく中で、2年ぶりに天皇賞(春)への出走が決定。

3冠馬ナリタブライアンが故障によって回避しており、本命馬不在の中でのレースとなった。

ここまでスランプが長引いていたこともあり、単勝オッズは5.8倍の4番人気であったが、レースでは800m近くに渡ってロングスパートを敢行。

第4コーナーで先頭に立ち、後続を引き離しにかかるが後ろからステージチャンプが追い込んできた。

そのまま2頭並んでゴールイン。ステージチャンプに騎乗していた蛯名正義騎手はガッツポーズを行った。ライスシャワーは僅差で敗れたのか?

勝負の行方は、写真判定にゆだねられた。

そして写真判定の結果、勝利したのは・・・




ライスシャワーだった。




ハナ差(16cm差)でステージチャンプを抑え、ライスシャワーが先着していたのである。

それまで9戦、実に2年ぶりの勝利。

ライスシャワーは、見事に復活を果たしたのだった。

そしてこの瞬間、ライスに対する競馬ファンの評価は一転した。

様々な記録を阻止し続ける「ヒール」から、挫折を乗り越え復活した「ヒーロー」へと─────


宝塚記念

復活を遂げたライスシャワーは、春のグランプリ宝塚記念に出走。

当初はそのまま休養する予定だったが、下記の経緯もあり参戦が決定した。


  • 前述の理由から種牡馬としての受け入れ先がその後も見つからず、「繫殖生活に入る前に中距離レースでの勝ち鞍もあったほうが良いだろう」と飯塚たちが判断したため
  • 斤量がそれまでよりはるかに軽い56kgだったこと
  • ファン投票で1位に推されたこと
  • 阪神・淡路大震災の影響で、得意とされている京都競馬場での開催になったため

この日、ライスは単勝オッズ6.0倍の3番人気でレースを迎えた。


いつものように的場を鞍上に参戦したが、当の的場はパドックよりも前からライスの様子に違和感を覚え、「今日は勝ち負けはいい、普通に回ってこよう」と無事に走らせることを考えていたという。

そして、レース本番。いつも通り最後の直線で追い込む作戦を取りつつ、的場はなるべく怪我を負わせないように慎重に馬群の後方でライスを進めさせた。




ところが、ライスが第3コーナーの下り坂を回っている最中に起きた惨劇により、観客たちの歓声は阿鼻叫喚へと変わった。



ライスの左前脚が故障して身体のバランスが保てなくなり、前のめりになるようにそのまま転げ落ちたのだ。

(1分34秒から当該シーン。故障を発生した瞬間が流れるため閲覧注意)




鞍上からターフに叩きつけられた的場は軽い打撲で済んだものの、当のライスは無理な姿勢で立ち上がろうとしたためか、左第一指関節を解放脱臼した上に複雑骨折(折れた骨の周囲の筋肉が通常よりもダメージが酷く、骨の一部が皮膚から剥き出しになっている重度の骨折)を発症、もはや手の施しようがない状態であった。

その場で予後不良と診断され、あまりの症状の重さから馬運車にも乗せることもできず、幔幕の張られたターフ上で安楽死の措置が執られた。

的場は突然の出来事に現状を受け入れられなかったが、飯塚に諭されたことでライスの死を受け止め、ライスの遺体を載せた馬運車に向かって最敬礼を行って相棒を見送った。

厩務員も手綱を手に持ったまま、栗林家の人々と肩を寄せ合って泣き伏せたのだった。

飯塚も、調教師としてライスの死を冷静に見届けていたものの、内心では言葉にならないほどのショックを受けており、無理矢理出走させたことを生涯悔やんでいた。その飯塚の深い後悔と悲しみを物語るエピソードとして、飯塚はライスが最期に付けていた蹄鉄を、死亡した他の馬の蹄鉄と同じように生産牧場やトレセンまたは競馬場の馬頭観音に納めることをせず、2019年11月に86歳でこの世を去るまで自宅で大切に保管していたという(なお、この蹄鉄は後述の『ザ・ベストハウス123』にてライスシャワーが取り上げられた際の取材でテレビ初公開という形でお披露目された)。


なお、当時の関西テレビでの実況は、遠くからでも分かるほど酷い折れ方と、激痛で暴れるライスの痛々しい姿と、獣医たちの手で安楽死処置が施される今際の様子をまざまざと映し出していた。

当日の解説者である大坪元雄は「ダンツシアトルは勝ったものの、私はやはりライスシャワーの骨折というか痛ましい姿を見せられると、素直に喜べない感じがありますね」とコメントし、別の競馬場から中継を見ていた大川慶次郎も「もう寂しいですね」、「本当にもう気の毒。私の予想は当たったんだけれども、なんとも喜べないレースですね」と寂しげに語るなど、競馬中継も悲しみ一色に包まれた。


死後

ライスシャワーが競走馬として花開いた菊花賞

長い不調から奇跡の復活を果たした天皇賞。その2つのレースの舞台となった京都競馬場。

ライスシャワーの生き様がしっかりと刻み込まれた淀の地で、彼はその一生を終えた。


95年度のJRA賞ではライスに特別賞を追贈されることとなった。


ライスシャワーの死の翌年である1996年、職員の発案により、京都競馬場に彼の鬣を納めた慰霊碑が建立された。また、茨城県三浦トレーニングセンター栃木県大田原市の競馬観音にも慰霊碑が建立されている。彼の死から四半世紀が経とうとしている今日でも、慰霊碑にはファンや関係者から多くの献花や供え物がなされ、飯塚はじめ当時の陣営メンバーも定期的に訪れているという。墓石はユートピア牧場から大東牧場に移されたが、現在墓参り不可能なので注意。


碑文には次の句が刻まれている。


疾走の馬 青嶺の魂となり


ライスシャワーの魂は、今でも淀の青空を駆けている。


余談

高速馬場を巡る論争

ライスシャワーが死亡して間もない頃は、「高速馬場がライスの故障を招いたのではないか」といった意見が見られ、高速馬場を巡る論争が競馬評論家や騎手の間で勃発した。

実際、京都競馬場の馬場は、スピードが出やすいように固めに仕上げられており、同競馬場においてもレコードタイムも頻発していたが、事実京都競馬場のレースに参戦した馬がレース後に故障するケースが相次いでいた。

事実、宝塚記念前日のメインレースでもバンブーユージンが競走中止・予後不良となり、更には、上記の宝塚記念の優勝馬であるダンツシアトルは屈腱炎を再発して同レースがラストランになり、最下位でゴールしたナリタタイシンも屈腱炎が再発して引退に追い込まれた上に3着のエアダブリンと14着のネーハイシーザーも屈腱炎を発症し長期休養を余儀なくされるといった具合に故障馬が多く出ていた。

しかしながら、実際はライスの故障との因果関係は不明であり、いささか短絡的な意見ではないかという見方も少なくない。

元々、父親であるリアルシャダイが脚部不安を抱えていたことから、脚部不安になりやすいことが産駒の欠点の一つとして挙げられることが多く、実際脚部不安や脚の故障により現役引退に追い込まれたり、デビューそのものが叶わなかったりした産駒も少なくなかった。ライスの予後不良は、この欠点が最悪な形で出てしまった結果と考えることもできる。

杉本アナへのバッシング

実は上記の宝塚記念、杉本アナが「私の夢」と言ったダンツシアトルが勝利している。しかも勝ちタイム2:10.2は当時の2200mの日本レコードというおまけ付きである。

杉本アナは毎年宝塚記念で「私の夢」となる馬を話しているが、「私の夢」となった馬はさっぱり勝てないのである。

なので、ダンツシアトルはそのジンクスを見事にはね返した凄い馬……の筈なのだが、ライスシャワーの死によってその勝利はイマイチ影が薄くなっている。それに加えて上記の通りこのレースがダンツシアトルにとってラストランになってしまっており、まさに踏んだり蹴ったりである。

また、杉本アナがライスの転倒にすぐさま気付けず、その様子に驚き慌てる観客たちの悲鳴と怒号に対して「大歓声が上がった」と言ってしまったり最後の直線で「私の夢、ダンツシアトル!」と実況したりしたため、「ライスが落馬したのに『大歓声』とは何だ」とか「ライスが死んでるのに『夢』かよ」と一部から非難を受け、杉本アナは前者に関して苦情文を送ってきた視聴者に対して生涯初めての実況に関する謝罪文を出す事態になってしまったのである(ただし、ライスシャワーの勝ったGⅠ、菊花賞・天皇賞2回ともすべてを杉本アナが実況しており、とくに2回目の天皇賞・春では前述の通りステージチャンプとの接戦だったが、杉本は僅差でライスシャワーが凌いでいたのがわかり「やった、やった、ライスシャワーです!」と実況している)。

伝説化するライスシャワー

95年度の天皇賞(春)における復活から名ステイヤーとして見直されていた中での最期だったこともあり、その死を機にライスシャワーの人気や名声が更に高まっていくことになった。彼の死からしばらくは、多くのテレビ局で彼の追悼特集や特番が放映され、オーナー夫妻や飯塚、ファン有志の手で、京都競馬場以外にも生前のライスとゆかりの深い場所に慰霊碑が建てられた。

ライスの死後から5年経った2000年JRAが主催した「20世紀の名馬大投票」でも、ミホノブルボン(17位、7,474票)やメジロマックイーン(12位、13,419票)を上回る計13,442票で11位に輝いている。それから数十年経った今でも、天皇賞(春)や菊花賞に関連したトピックにとどまらず、競馬関連の雑誌やテレビ番組でも度々その功績が取り上げられたり、様々なファン投票でもライスの名がランクインしたりするなどその人気は衰えていない。

しかし、これらの風潮については「その死を殊更に騒ぎ立てて、美化したり英雄視したりしているのではないか」と懸念する競馬関係者からの批判や反発も多く、「ライスよりももっと評価すべき馬がいるはずなのに」、「レース中での死亡は少しも珍しくはないのにセンチメンタリズムに流されすぎだ」などといった意見が少なくなかった。

ある競馬ライターは、ブルボンやマックイーンに競り勝った際のヒール伝説を引き合いに出して「かつてのヒール伝説を棚に上げて、その最期で以てブルボンやマックイーン以上の英雄であるかのごとくライスを祭り上げるマスコミの有様は一種の宗教のようだ」と辛辣に評価し、また別の競馬ライターは「ライスの悲劇的な最期について感傷に酔いしれるために利用しているだけではないか」とまで言い放ち、さらに別の競馬ライターに至っては「(「20世紀の名馬大投票」での人気に関して)どうしてもライスが11位にランクインするほどの馬だとは思えない」と述べた上でライスの伝説化現象の背景について「自己犠牲が美徳とされる日本人の美意識や琴線に触れる要素がたまたま多かったからではないか」と推測する有様である。

もちろんライスシャワーは名馬と呼ばれるに相応しい馬ではあるが、それはあくまでもステイヤーとして類い希な才能と功績を持っていたことが世間から認められたからである。決して悲劇的な最期を遂げたからではないことは、最後の宝塚記念の前にファン投票1位になれる人気が既にあったという事実が証明している。

ヒール伝説も「関東の刺客」の異名も、その特異な才能が注目されていたことの裏返しであると言うことは心しておくべきであろう。


京都競馬場の守り神

淀の舞台で絶対の強さを誇っただけあり、京都競馬場にある彼の慰霊碑は『守り神』的な扱いを受けることがある。例として、2018年にレインボーラインが天皇賞春制覇と引き換えに脚を故障し跛行を発現した際には同馬の無事をライスシャワーの慰霊碑に対して祈るファンが出ていたとか(幸い、レインボーラインは浅屈腱不全断裂による競走能力喪失で引退となったものの安楽死が必要な状態ではなかったため、現在は種牡馬として生活している)。

奇しくもこの年はウマ娘のアニメ一期が放映された年で、ライスシャワーも擬人化という形で再びこの世界に生を受けた年であった。


競走成績

R=レコードタイム

3歳時

3歳新馬 1着

新潟3歳ステークス(GⅢ) 11着

芙蓉ステークス 1着

4歳時

スプリングステークス(GⅡ) 4着

皐月賞(GⅠ) 8着

NHK杯(GⅡ) 8着

東京優駿 2着

セントライト記念(GⅡ) 2着

京都新聞杯(GⅡ) 2着

菊花賞(GⅠ) 1着R

有馬記念(GⅠ) 8着

5歳時

目黒記念(GⅡ) 2着

日経賞(GⅡ) 1着

天皇賞(春)(GⅠ) 1着R

オールカマー(GⅢ) 3着

天皇賞(秋)(GⅠ) 6着

ジャパンカップ(GⅠ) 14着

有馬記念(GⅠ) 8着

6歳時

京都記念(GⅡ) 5着

日経賞(GⅡ) 2着

有馬記念(GⅠ) 3着

7歳時

京都記念(GⅡ) 6着

日経賞(GⅡ) 6着

天皇賞(春)(GⅠ) 1着

宝塚記念(GⅠ) 競走中止※予後不良


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ヒーロー列伝No.39

淀を愛した、孤高のステイヤー。

勝ち取った3つの勲章は、淀の坂越え、過酷な長距離が舞台だった。

野望を咲かせた菊花賞、自信に満ちた5歳春の天皇賞。

黒鹿毛の四肢は、いずれもレコードタイムで駆け抜けてみせた。

そして7歳春の盾。執念の力走に、神々しいまでの輝きが蘇る。

静なる漂いに秘めた熱き想い、以心伝心なる的場との呼吸。

どんなに時が流れても、孤高のステイヤーの称号は君のものだ。


名馬の肖像2021年天皇賞(春)

君の場所、君の瞬間

自分の強みを

もっともいかせるのは

ここだと信じられる

舞台に立った君よ


倒すべき相手は誰か

しっかりと見さだめて

勝つためのアイディアを

心に描いた君よ


その場所で咲け

その一瞬に賭けろ


関連動画

JRA公式チャンネル「3分でわかった気になる名馬シリーズ」より、ライスシャワーの解説


関連タグ

競馬 競走馬 ステイヤー

極限まで削ぎ落とした体に、鬼が宿る。


関連する競走馬

キョウエイボーガン - ライスシャワーが勝ち、ヒール扱いされた菊花賞の「もう1頭のヒール」。逃げ戦法を得意とし、ミホノブルボンの楽逃げを阻止し、ラスト直線でスタミナ切れさせる形となったため、こちらも中傷を受けた。

コメシャワー - 2009年生まれの地方競馬所属の牝馬。名前の由来は恐らくライスシャワーから。


競馬におけるヒールつながり

ロベルト - ブリガディアジェラードのインターナショナルステークス制覇・16連勝を阻む(父・リアルシャダイはロベルト産駒であり、ライスの父方の祖父に当たる)。

タケホープ - ハイセイコーのダービー・菊花賞・天皇賞春制覇を阻み、よくライスシャワーと比較される。

タレンティドガール - マックスビューティのエリザベス女王杯制覇・牝馬三冠を阻む。

スーパークリーク - オグリキャップの5歳時の天皇賞秋制覇を阻む(奇しくもこの時、スーパークリークに騎乗していたのは後にオグリの引退の花道を飾ることとなる武豊騎手であった)。

グラスワンダー - スペシャルウィークの宝塚記念・有馬記念制覇(※1)を阻む(ライスと同じく父馬がロべルト産駒。鞍上もライスと同じ的場均)。

ハーツクライ - ディープインパクトの新表記3歳時の有馬記念制覇を阻む(※2)。

(※1、2)それぞれ史上初の秋古馬三冠および無敗四冠(クラシック三冠+ジャパンカップか有馬記念のどちらかを制覇)がかかっていた。なお、このうち、秋古馬三冠は翌年にテイエムオペラオーが成し遂げたが、無敗四冠は未だ成し遂げられていない(ディープインパクトの前後に無敗三冠を成し遂げたシンボリルドルフコントレイルデアリングタクトの3頭はいずれも次走のジャパンカップで初黒星を喫したため)。

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