記録より記憶……北の地に輝いた夏
AN INTENT GIRL
天に駆けた根性娘
小柄な芦毛の馬体。
血統的にもそれほど期待されずにデビューした。
しかし、彼女は並外れた根性の持ち主だった。
過酷なローテーションを課せられながらも
懸命に走り続けた。
だが、その先に待っていたのは栄光ではなく、
哀しすぎる結末だった。
(『週刊100名馬 vol.18 サンエイサンキュー(2000年、サンケイスポーツ)』より)
プロフィール
生年月日 | 1989年4月7日 |
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死没日 | 1994年10月21日(旧6歳没) |
英字表記 | Sanei Thank You |
性別 | 牝 |
毛色 | 芦毛 |
父 | ダイナサンキュー |
母 | グロリーサクラ |
母の父 | シーホーク |
競走成績 | 17戦5勝 |
調教師 | 佐藤勝美(美浦) |
馬主 | 岩崎喜好 |
生産者 | 寺井文秀 |
6代母は下総御料牧場の基礎輸入繁殖牝馬のうちの1頭である星旗。星旗牝系からはニホンピロムーテーや、ゴールドシップ、ホッコーメヴィウスなどの活躍馬が出ている。
生涯
年齢表記やレース名は当時のもの。
3歳
1991年7月13日、札幌競馬場の新馬戦でデビュー。2着に敗れたが、翌週(当時は同じ開催なら何度も新馬戦に出られた)に勝利。
そして更に翌週(=3連闘)の札幌3歳Sに出走するも、13着敗退。この時の勝ち馬はその後何度か交戦したニシノフラワーだった。
その後は徳吉孝士騎手から東信二騎手に乗り変わった函館3歳Sと、初GⅠ挑戦となった阪神3歳牝馬Sではどちらも2着と健闘する。
なお、この年は約半年で7回出走とかなりのペースで走り続けていた。
元来体が弱く、また小柄な芦毛の馬体を有していたサンキューは「ねずみ馬」と呼ばれ、また調教師にも2、3人預託を断られていたという。
4歳春
2月のクイーンSから始動し重賞初制覇。
しかし次走は何故か皐月賞トライアルの弥生賞(6着)。その後の桜花賞は2番人気に推されつつも7着に敗れたため、主戦騎手が田原成貴騎手に交代となる。
主戦交代後の初戦となったオークスではアドラーブルの2着だったが、直線で一瞬先頭に立つなど見せ場は作れた。
4歳夏~秋トライアル
夏は多くの馬にとって休養の時期。クラシック三冠目が控えている4歳馬にとっては尚更である。
しかしサンキューは現3歳牝馬の身ながら札幌記念(当時GⅢ)に出走。ここで古馬相手に勝利を収める(現3歳牝馬にとって初制覇。2022年現在でも他にはハープスターとソダシしかいない)。
しかしその反動かそれともローテの疲れか、次走の函館記念は8着だった。
秋になってエリザベス女王杯(当時秋華賞はなかった)のトライアルに出走することとなったが、馬主の岩崎氏はサファイヤSとローズSの両方に出すことを決定。当然田原騎手やスタッフ達は猛反対(特にローズS出走)したが、サンキューは結果的にそれぞれ1着、2着と好走した。
なお、岩崎氏はこの事が原因で「自分が絶対的に正しい」と思い込むようになったらしい。
エリザベス女王杯前後 ~サンエイサンキュー事件~
一方でオークス以降徹底的に使い詰められたサンキューの体調は悪化。田原騎手は秋トライアルやエリ女直前にもその旨をインタビューで発言していた。だが流石に悪く言い過ぎたと感じたのか、テレビの撮影終了後に「こんなに悪く言って、これで勝ったら頭を丸めなきゃあかんな」と軽く冗談を漏らしたという。
しかし、サンケイスポーツの水戸正晴記者が「田原、2着以上なら坊主になる」という見出しで田原騎手の上記の冗談を取り上げる記事を掲載。見ようによっては八百長とも捉えられかねないタイトルであったため、これには田原騎手も「誤解を招く書き方は勘弁してほしい」と釈明したが、サンスポは「田原謝罪」という見出しで取り上げた。
なお、水戸記者は田原騎手の発言を直接聞いておらず、別の記者から又聞きした内容を誤解して報じてしまったらしい。
さらに最悪だったのは、当時同じくサンスポにいた武豊の初代番記者であった片山良三がこの一件を文藝春秋の「Sports Graphic Number」に自社批判を行う形で記事を出したため、「サンスポに対する名誉を傷付けた」ことを理由にサンスポを事実上解雇されてしまう(片山はのちにフリーになるが、「Sports Graphic Number」の看板記者として活躍している)。しかし、この解雇に対して社内でも反発する記者が少なからずおり、一時フジサンケイグループの体質批判記事が組まれたり、サンスポの競馬部門から記者の退職が相次ぐ事態になってしまった。
これが俗に言う「サンエイサンキュー事件」である。
この騒動以降、田原騎手はサンケイスポーツに対する不信感を募らせ、サンスポの取材は一切拒否。サンスポ以外の他のメディアについても、サンキューの末路から一転して悲劇のヒロイン的に取り上げるような姿勢への違和感を表明しており、それ以降記者やレポーターなどの競馬メディア関係者と度々トラブルを起こす遠因ともなった。
なお、この騒動の原因を作ってしまった水戸は特に処分を下されることなく、2024年現在もサンケイスポーツ競馬欄において最古参ベテラン記者の一人として馬券予想及びコラムを連載している。
後に田原は自らが漫画原作を務めた「競馬狂走伝ありゃ馬こりゃ馬」にて、この顛末を元にしたエピソードを記している。
運命の有馬記念
そんな騒動がありつつも出走したエリザベス女王杯は5着。田原騎手はサンキューに「これでやっと休めるな」と声を掛け、厩舎も放牧の予定を立てていた。
が、馬主の岩崎氏は有馬記念出走を決断。なお、厩務員と調教助手曰く当時のサンキューは跨がると橈骨が軋む音が聞こえたほどだったとのこと。
田原騎手は「こんな状態の馬に責任は持てない」という理由とトウカイテイオー騎乗の予定があったため、加藤和宏騎手に乗り代わりとなった。
「あまりにも惨いことを」と考えていたスタッフは、「せめて無事に戻ってきてほしい」と祈り続けていたという。加藤騎手も無理をさせなかったため、後ろからの展開となった。
しかし最終直線にて、サンキューの身体はついに限界を迎え、競走を中止した。
診断は「右橈骨手寝骨複骨折」。通常なら予後不良級、安楽死もやむなしの致命傷だった。
このときテイオー(11着)に乗っていた田原騎手は、「俺が止めなきゃいけなかったのに何もしてやれなかった」と涙を流し、悔やんだという。
5歳以降、そして
先述の通りサンキューの怪我はかなりの重度で、競走能力も喪失していたが、岩崎氏は延命治療を決断。美浦の診療所で5ヶ月の入院を余儀なくされた。
5月26日、畳と新聞を敷いたベッドで寝起きしながら、馬運車に揺られまる2日かけてサンキューは生まれ故郷の三栄育成牧場に帰郷した。岩崎氏の片腕でもあり、幼駒時代からサンキューを知る、三栄育成牧場代表取締役の住吉長一氏が出迎えてくれたのだ。
ただでさえ細かった体は更に痩せこけ、床ずれはぶら下がっている箇所もあり、股には穴が開いていた。酷い姿で帰ってきたサンキューに、住吉氏は絶句して声も出なかった。当のサンキューはそんな状態にもかかわらず、故郷を思い出したのか嬉しそうに鳴いたという。
サンキューが牧場に帰ってきてからの五日間は馬房の前でサンキューと一緒に住吉氏は寝起きした。夜明け前の三時半に起き、サンキューの好きな青草を刈るのが常だった。
馬が普通にする動作も、サンキューにとっては一歩間違えば命を奪いかねない、気の抜けない事だった。寝るときは骨折した前足をかばってゆっくりと寝転び、立ち上がる時は右脚に負担をかけないように一気に立ち上がっていた。
飼葉を食べる時も、負担をかけまいと前脚を浮かしながら食べる事も多々あった。床ずれが痛む時は壁に体を寄りかからせて、傷口が触れないようにもしていた。
一度住吉氏が用事で夜飼いが遅れ、普段ならば7時のところを8時になってしまった時、普段大人しいサンキューは激怒したという。一頭で夜飼いを待っていた事を可哀想に思った住吉氏は以降は必ず7時に夜飼いをするようになった。
サンキューは住吉氏にとても懐いており、くつろぐときはいつも頭を住吉さんの膝に乗っけてくつろいでいた。そんな甘えたなサンキューの事をまた住吉氏も可愛がっていた。
また、住吉氏が仕事を終え帰ろうという時、必ずサンキューはボロ(糞)をした。少しでも長く住吉氏と居たいが為に、賢いサンキューはあえてボロを出していたのだ。
小柄で病弱だったとはいえ、生命力が非常に強かったサンキューは1994年の春、ついに庇う事もなく四本の脚で立てるようになり、放牧ができるまでに回復した。が、彼女のいる牧場はあくまでも育成牧場。馬が落ち着いて療養するには少々難しい。
そのような理由から、5月7日にサンキューは縁あって越湖ファームで療養生活を送ることが決まった。
受け入れ先の越湖正和氏が数年前の阪神3歳牝馬S時に「繁殖にする時にはうち(越湖ファーム)に」と冗談交じりに言った事がきっかけだった。
その後クラシック期からますます目覚ましい活躍を遂げたサンキューを見て、中小牧場であった越湖ファームに来るとは思っていなかったのだ。
いくら回復したといっても、骨折してなんとか立っている状態の馬を受け入れるのには相当慎重になった筈である。越湖氏は、脚は曲がっているが、球節さえ真っ直ぐに脚について歩ければ繁殖馬としてもどうにか使えるかもしれないと思っていたという。何よりも、越湖氏はサンキューの走りに魅了されたファンだった。
とはいえ、越湖ファームではリラックスして体力づくりをする事が目標であり、繁殖というのはあくまでも希望であった。
サンキューが回復したのは住吉氏らの献身的な世話のみならず、本馬が気性のいい馬であった事も関係しているだろう。頑固な面も多々あったが、基本的にはとても大人しく利口で、何事にも動じず、なおかつ自分の体が不自由な事を理解している賢さもあったサンキュー。また、林檎が大好物だったという。
住吉氏と別れ、越湖ファームに移り住んだサンキューは、朝6時に起き、普通の量の半分の飼い葉を食べ、それから1時間程休み、10時から夕方まで放牧場で過ごす生活を続けていた。
その一方で、着々とサンキューの手術日が近づいていた。
サンキューは過去にもレース中での骨折、そして骨折治療中に患った蹄葉炎と二度の危機を迎えていたが、今年に入って、更に危機を迎えていた。球節から蹄にかけて湾曲した脚が正常になるように右前脚の腱を切って伸ばすというものである。
右前足を骨折したサンキューは、骨折箇所を取り巻く筋が上下に引っ張られて、曲がったままの状態になっていた。そのため脚が内向きになり、サンキューも立ちやすくする為に球節から蹄を内に巻き込む形でなんとか姿勢を保っていた。だが、蹄が内に向きすぎるとやがて球節で脚を支える事になる。そうなると皮膚の弱い部分は裂け、そこから細菌に感染する恐れがあった。それだけではなく、右前脚で庇っていれば左前脚の負担からくる鬱血は避けられず、蹄葉炎が再発する恐れもあった。
この手術自体はそこまで難しいものではなく、腱を8cm程度切れば済むもので、手術時間も30~40分と比較的短時間だ。手術よりも重要なのはその後のリハビリだった。手術後右前脚を正常な位置に戻し、均等に体重をかける動作をいつサンキューが覚えるかがポイントだったのだ。
手術を明日に控えた10月15日。住吉氏は越湖ファームで繋養されているサンキューの元を訪れた。
「サンキュー信じてるからね。手術頑張って。また明日来るから」
信じている、が住吉氏の口癖だった。
迎えた手術日の10月16日。雨の中1時15分に始まった手術は40分後に無事終了。手術を終えてから一時間後、サンキューは四本の脚でしっかりと立っていた。サンキューは住吉さんから大好きな林檎と青草を貰い、嬉しそうに食べていた。
「僕はサンキューを信じているから絶対治ると思っているよ。リハビリも大丈夫、あの子なら必ず覚えるよ」
住吉氏のみならず、越湖氏も、獣医たちもサンキューの術後のよさから安心しており、心配していなかった。
それから5日後、いつも通り朝6時に馬房の戸を開けると、サンキューの様子がおかしかった。首と内股に汗をかいているのだ。越湖氏はすぐさま獣医に連絡した。
だが、獣医の到着を待たずしてサンキューは全身痙攣を起こし、そのまま息を引き取った。
術後も良好、前日まで変わりなく過ごしており、誰一人として予想だにしていない突然の死だったのだ。
それから4時間後、三栄牧場の住吉氏の元へサンキューは無言の帰宅を果たした。翌日に盛大な葬式が行われた後、住吉氏の作った墓にサンキューは眠った。闘病生活から実に2年の月日が経っていた。
この訃報を聞いた田原は「きつい言い方するが、何故サンキューを有馬の(故障の)ときに楽(安楽死措置)にしてあげなかったのか。今でも腸が煮えくり返る思いだ。」と自身の連載エッセイに怒りに満ちた一文を残している。
サンエイサンキューの投げ掛けた問題
調教助手曰く、馬主の岩崎氏は資金難と西山正行氏(西山興業グループ創業者、ニシノフラワーやセイウンスカイの馬主)への対抗心からサンキューの名前を売ろうとしていたらしい。
その結果、サンキューは過酷すぎるローテーションで多くの重賞に出走し、脚の状態が悪化してもそれを続けたことで故障したのは先述の通りであり、それに対してあまりにも残酷な仕打ちだったという批判は現在も少なくない。
確かに、競走馬を生産・あるいは購入して馬主となった人物が、その馬をどう扱うかを自由に決めることができるのは当然のことであり、この馬のローテーションを岩崎氏が決めること自体もなんら問題ではない。金策のために持ち馬を酷使すること自体も珍しいことではなく、経済動物を「命ある生き物」としてどの程度尊重するのかも、結局は馬主次第である。
しかし、岩崎氏の選択は、大切に使えばこの先の大きなレースで好走できたであろう有望な競走馬の力を早々と潰しただけでなく、繁殖牝馬としての未来をも奪う結果となった。
真っ当なローテーションなら、息の長い活躍をし続けて賞金を稼ぎ、引退後も健康な繁殖馬として売り出され、子孫を残す未来も十分あり得ただろう。
百歩譲って、能力があるうちに多くのレースに出走させて賞金を稼ぐためだったと過酷なローテーションを正当化できたとしても、怪我の前兆が表れていた状態で陣営の反対を押し切って有馬記念に出走させ、故障で見込みの低い治療に対して出費を強いられた挙句、その治療も徒労に終わってしまった点は、ホースマンとビジネスマンどちらの観点から見ても、馬主を擁護することは困難である。
つまるところ馬主が自分の資金繰りをなんとかするためにとった行動によって、この先得られるはずだった多くの金銭や名誉を却って失う結果になったのだ。
ここから学べるのは、経済動物に愛情を持ち、大切に扱うことをしなければ、その動物によって持ち主が手に入れられたはずのものを失ってしまうことがあるということだろう。経済動物に対しても動物愛護の考え方が必要なのは、倫理だけが理由ではないのだ。
競馬では華々しい活躍を挙げた馬多くいる一方で、彼女のような馬が他にも多くいることも忘れてはならない。
サンキューの存在が、経済動物たるサラブレッドと人間の関係について改めて考えさせられる問題となっている。
同じケースとして、過酷な使い方で知られるホースケア持ち馬のエレーヌが上げられる。
彼女はグランダム・ジャパンの優勝を目指すためサンエイサンキュー以上の過酷な使われ方をされ、現役最後のレースとなったノースクイーンカップは全く見せ場なく惨敗し、その後所属していた笠松競馬の自厩舎で心不全を起こし急死してしまうという悲劇に見舞われた。
岩崎氏は後に触法行為(詐欺とも脱税とも様々な説があるが詳細は不明)を行っていたことが発覚したため、馬主の資格を剥奪された。
産駒を残す事が出来なかったサンキューだが、妹であるシャトーモアから現在も尚か細いものの牝系は繋がっており、2020年に繁殖入りしたエヌティボタンは3頭の牝馬を出産している。2022年に誕生した牝馬の父はサンキューやこのエヌティボタンと同じ星旗牝系出身のゴールドシップである。
関連項目
動物愛護、動物福祉:この記事に心を痛めた方はこちらの記事も読んでほしい。
ハルウララ金策:アプリゲームウマ娘プリティーダービーで編み出された資金集めの方法。一部で共通点を感じたプレイヤーも。なお実際のハルウララ号は馬主に振り回されたという共通点があるものの、2022年現在は幸せな余生を送っている。