※本馬をモデルとするウマ娘については、マルゼンスキー(ウマ娘)の記事を参照。
概要
主な勝鞍は府中3歳ステークス(1976年)、朝日杯3歳ステークス(1976年)、日本短波賞(1977年)など。
現役時代は無敗で2着との合計着差が61馬身と突出しており、「スーパーカー」と呼ばれたが、持込馬ゆえに当時の規定で八大競走への出走は叶わなかった。
種牡馬としても成功。
1990年に顕彰馬に選ばれた。
※メイン画像手前ゼッケン8番の馬
プロフィール
生年月日 | 1974年5月19日 |
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死没日 | 1997年8月21日 |
英字表記 | Maruzensky |
性別 | 牡 |
毛色 | 鹿毛 |
父 | ニジンスキー(アイルランド) |
母 | シル(アメリカ) |
母父 | バックパサー(アメリカ) |
5代内のインブリード | マンノウォー4×4 / ブルドッグ5×5 / ブルーラークスパー5×5 |
生産 | 橋本牧場(北海道勇払郡早来町) |
馬主 | 橋本善吉 |
調教師 | 本郷重彦(東京競馬場) |
主戦騎手 | 中野渡清一 |
戦績 | 8戦8勝 |
競走馬時代
※現役時代の馬齢は旧表記で記載。
母の来日と誕生の経緯
1974年5月19日生まれ。父はイギリスの三冠馬ニジンスキー。母はシル。母父はアメリカ競馬殿堂入りのバックパサー。
バックパサーの娘はニジンスキーと非常に相性の良いニックス配合(相性の良い組み合わせ。ステマ配合等が有名)と言われていた。母シルにとっては初仔である。
マルゼンスキーの誕生に遡ること半年、1973年秋。北海道胆振地方の軽種馬農協が、アメリカ合衆国の馬産を学ぶ研修旅行を企画した。しかし直前になって1人欠員が出てしまい予算に狂いが生じる恐れが出たことから、パスポートを持っていてすぐにでも参加可能な早来町の牧場主・橋本善吉(スピードスケート・自転車競技選手のち政治家の橋本聖子の父)に同行を依頼。橋本牧場はもともと牛を主に扱っていたが、競走馬生産や馬主活動への進出を計画していたところだった。
そして希望者のみのオプショナルツアーとして組み込まれた競走馬セリ市のキーンランドセールを見学した際、善吉は一頭の若い繁殖牝馬に目を留めた。皮膚がつやつやとして尻が大きく、いかにも丈夫な仔を産みそうな健康的な牝馬。後のマルゼンスキーの母・シル(Shill)である。善吉が感嘆していたところ、同行者から「そうでしょう。あの牝馬は母系の血統がいいし、三冠馬ニジンスキーの仔がお腹にいるんです。だからきっと高く売れますよ」という言を聞く。善吉はこの言葉に内心(自分は血統や交配相手を読んで褒めたんじゃない。長年動物と向き合ってきた経験で、素直に立派なよい馬だと感じただけなんだ)と強く反発、同時に「それなら何としても自分が直感で見込んだあの牝馬を手に入れてやろう」と気持ちが燃え、急遽セリに参加することにした。
当時の日本の馬産のレベルは決して高くなく、外国産馬といえど名馬と血統の似通った代用種牡馬等の購入が主流の時代にあって、シルの母胎にいるのは三冠馬の直仔という良血中の良血馬。セリは白熱し、結局30万ドル(当時の価格で約9000万円、ちなみに日本の大卒初任給が6万円強の時代である)という、産まれてくるお腹の仔は当時の日本の規定で大レースに出られないにも拘らず破格の値段で善吉が落札した。シルの競売には社台ファームも参加していたが、25万ドルの時点で降りている。
現地の畜産関係誌では「馬のことも知らない日本の牛牧場の主が、とんでもない高額で馬を買っていった。どうも気が違ったらしい」と笑いものにされたという。
こうして橋本牧場にやってきたシルの出産を前に、善吉は牧場の屋号「丸善」(漢字の「善」に○をつけたマーク)から、生まれてくる仔が牡馬なら父ニジンスキーの名を継いで「マルゼンスキー」、牝馬なら「ミスマルゼン」と名付けようと決めていた。結果、牡馬が生まれたので「マルゼンスキー」と決まった。
しかし、マルゼンスキーは外国で受胎し日本で生まれた馬であった。こうした馬は「持込馬」と呼ばれ、1970年代当時は外国産馬と同じ扱いで、旧八大競走の中では有馬記念だけしか出られなかった。
- 元々持込馬は内国産馬と同じ扱いで別にクラシック競走や天皇賞への出走制限がかけられていなかったが、1971年に活馬(生きている馬)の輸入自由化が行われた結果、その見返りとなる内国産馬振興策の一環として、1971年6月30日以降持込馬は外国産馬同様の扱いを受けることになってしまった。
- なお、この制限は1983年一杯を持って廃止されており、1984年からは持込馬もクラシックなどに参戦できるようになった。マルゼンスキーはその狭間の時代に生まれた馬と言える。
また、足も外向しており、脚部不安が常につきまとっていた。それでも善吉はマルゼンスキーに愛情を注ぎ、橋本家には一男三女の4人の子どもがいたが(末っ子の三女が橋本聖子である)、マルゼンスキーはその下の次男として扱われていたという。
3歳(1976年)
1976年の7月にデビュー。騎手は引退まで一貫して中野渡清一が務めた。新馬戦を大差勝ちすると、次走の府中3歳ステークスでは、控える競馬を行ったことが災いしたのか、2着ヒシスピードに唯一の鼻差という辛勝だった。
朝日杯3歳ステークス
そして、次走の本番・3歳王者を決める朝日杯3歳ステークスに出走した際、管理調教師の本郷重彦は
「責任は俺が取るから、前に行って離せるだけ離してこい。」
生産者のオーナー橋本善吉も
「このレースだけは絶対に勝ってほしい。」
と述べ、これに応えて中野渡とマルゼンスキーはレースをスタート、スタートから一気に先頭に立つと、そのままほぼ馬なりで他の馬を一頭も寄せ付けずに1着でゴールイン。2着ヒシスピードに13馬身(大差)突き放しての完勝だった。
このレースでの主戦・中野渡は
「ただマルゼンスキーにつかまっていただけ。4コーナーじゃ他の馬の足音も聞こえなかった。」
と述べ、2着ヒシスピードの鞍上・小島太も
「ありゃ化け物だわ。」
と脱帽するしかなかったという。加えて勝ちタイム1分34秒4は当時の3歳マイル戦レコードタイムで、1989年に同じく朝日杯にてアイネスフウジンがレコードタイの1分34秒4で優勝し、さらに翌1990年に同レースでリンドシェーバーが1分34秒0で優勝して更新するまで君臨した。同年の優駿賞最優秀3歳牡馬を受賞。
4歳(1977年)
折しもこの頃はスーパーカーブームであり、中野渡が「スーパーカーのような乗り心地だ。」と言ったことからマルゼンスキーには「スーパーカー」の異名が付いた。
1977年の始動戦は中京競馬場に遠征してのオープン競走を選択したが、既にその凄まじい能力は知れ渡っており、マルゼンスキーの出走が分かると回避馬が続出、競走不成立(最低5頭立てが必要)の危機に陥った。
この時は、京都競馬場所属の調教師・服部正利が「関東の強い馬から逃げてレース不成立など、関西競馬界の恥」と、進んで自厩舎から2頭を出したことで、何とか5頭を確保しレースが成立した。だが服部師もマルゼンスキーに敵わないことは悟っており、中野渡に「タイムオーバーだけは勘弁してくれよ?」(勝ち馬からあまりに離されすぎると、能力不足として一定期間の出走停止のペナルティがある)と耳打ちしたという(その結果か否か、このレースではそこまで離さず2馬身半差の勝利)。
日本ダービー出走ならず
このように圧倒的強さを見せていたマルゼンスキーだったが、既に述べた通り当時の規定により、日本ダービーには出られなかった。
この時に中野渡はこう言った。
28頭立て(※)の大外枠でもいい。
賞金もいらない。
他の馬の邪魔もしない。
だからマルゼンスキーを出させてくれ。
そうすれば、どの馬が一番強いのかが分かる。
※当時のフルゲートは28頭。
この年に日本ダービーを優勝したのは、ラッキールーラだった。
日本短波賞
結局次に選んだのは、当時日本ダービーで敗れた・賞金不足で出走できなかった馬が出ることが多く、「残念ダービー」と呼ばれていた日本短波賞(中山芝1800m)。(一時期は外国産馬のクラシックイヤー春の大目標であったNHKマイルカップの創設も1996年のことで、当時はまだ存在しない。)
7頭立ての中、マルゼンスキーは単勝1.0倍という、圧倒的な一番人気に推された。(つまりマルゼンスキーが勝っても賭け金がただ戻ってくるだけである。あまりに人気が集中したとき、複勝馬券ではときおり起こる現象だが、単勝1.0倍は非常に珍しい。)
このレースでは最初から楽々と逃げて大きなリードを取ったが、第3コーナーで突如失速。場内は大きくどよめいたが、後続に並びかけられ中野渡がムチを入れると再び加速し簡単に突き放した。このようなほとんど「遊びながら」のレースで、後の菊花賞馬プレストウコウに7馬身差を付けての圧勝。
無念の故障引退
クラシックへの出走は叶わなかったが、世代最強は間違いなくマルゼンスキーと認知され、上の世代との対決にも注目が集まった。
1歳上の世代は、トウショウボーイ・テンポイント・グリーングラスの三強「TTG」であった。
上記の通り、マルゼンスキーにとっては八大競走の中では有馬記念しか出られなかった。
人気投票ではTTGに次ぐ4位だったが、直前の追い切りにて屈腱炎を発症してしまい、引退を余儀なくされた。この年の有馬記念はトウショウボーイ・テンポイントの伝説級のマッチレースとなった名勝負だったが、後に中野渡はその有馬記念にマルゼンスキーが出走できていたらとの問いに、こう答えている。
「おそらく、トウショウボーイとテンポイントのさらに前を走っていただろう。」
獲得賞金は7660万1000円、8戦8勝、無敗での引退。僅か8戦で付けた2位との合計着差はなんと61馬身。
その圧倒的な成績から、大レースには出走できなかったものの引退式には「さようなら マルゼンスキー 語り継ごう お前の強さを」とのファンからの横断幕が掲げられた。
種牡馬時代
イギリス三冠馬ニジンスキーを父に持つ血統からマルゼンスキーは種牡馬となり、1982年には、ホリスキーが菊花賞を優勝し、種牡馬としてGⅠ級競走初勝利を挙げた。
1988年にはサクラチヨノオーが日本ダービーを優勝し、自身の無念を晴らす。
マルゼンスキー自体は早期引退の影響もあり走った最長のレースが日本短波賞の芝1800mであり、長距離の実績は無かったが、産駒はホリスキーを初め長距離での実績を残している。この点がますます八大競走に出走していれば…という声を高める事となった。
こうした競走成績と種牡馬成績が評価され、1990年に顕彰馬に選ばれた。
また、ブルードメアサイアーとしても、ライスシャワー、ウイニングチケット、スペシャルウィークなどを輩出している。
1997年8月21日に心臓麻痺により繋養先の北海道早来町・橋本牧場にて23歳(旧24歳)で死去した。橋本牧場での告別式の後、まだ存命だった母のシルにも見送られて牧場内に埋葬された。
主な産駒
GⅠ級勝利馬
※1983年以前は旧八大競走のみ。
ホリスキー('82菊花賞)
スズカコバン('85宝塚記念)
サクラチヨノオー('87朝日杯3歳ステークス、'88東京優駿)
レオダーバン('91菊花賞)
その他重賞勝利馬
サクラトウコウ('83新潟3歳ステークス、'86七夕賞)- ネーハイシーザーの父
タシロスプリング(2000 ファンタジーステークス) - 産駒最後の重賞勝ち馬。
母の父として
ライスシャワー('92菊花賞・'93,'95天皇賞・春)
スエヒロジョウオー('92阪神3歳牝馬ステークス)
ウイニングチケット('93東京優駿)
メジロブライト('98天皇賞・春)
スペシャルウィーク('98東京優駿、'99天皇賞・春、天皇賞・秋、ジャパンカップ)
プリモディーネ('99桜花賞)
メジロベイリー('99朝日杯3歳ステークス)
関連タグ
ヤマニンスキー - 父にニジンスキー、母父にバックパサーというマルゼンスキーと同じ血統構成の持込馬。腰が悪く競走成績はふるわなかったが、マルゼンスキーの代替種牡馬として人気を集め、多くの重賞馬を輩出した。
ラシアンルーブル - 父ニジンスキー、母父バックパサーに加え、母母父プリンスキロまでマルゼンスキーと同じ血統構成であり、ヤマニンスキー同様代替種牡馬として人気を集めた。代表産駒は優駿牝馬の勝ち馬イソノルーブル。
みどりのマキバオー - 主人公ミドリマキバオーの母父として登場。ただし名前は「マルゼニスキー」となっている。
グラスワンダー - 1997年朝日杯3歳ステークスでさらに1分33秒6のレコードタイムで優勝、この勝利を実況した三宅正治フジテレビアナウンサーは「マルゼンスキーの再来」と表した。
橋本聖子 - 日本のスピードスケート・自転車競技選手のち政治家(参議院議員)。実家の橋本牧場がマルゼンスキーを繋養しており、自身の活動にも影響を与えた。
シアトルスルー - マルゼンスキーと同世代で、1977年に史上初の無敗のアメリカ三冠馬となった。しかし競馬関係者によれば、マルゼンスキーがアメリカでデビューしていたら、シアトルスルーの三冠達成は難しかったかもしれないと言われていたという。