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マルゼンスキー

まるぜんすきー

マルゼンスキーは、日本の競走馬。 デビューから一度も負けたことがなく、「スーパーカー」と呼ばれた名馬だったが、当時の規定でクラシック競走への参加は叶わなかった。 1990年に顕彰馬に選ばれた。(1974~1997)
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※本馬をモデルとするウマ娘については、マルゼンスキー(ウマ娘)の記事を参照。
※現役時代の馬齢は旧表記で記載。

生涯

誕生からデビューまで

1974年5月19日生まれ。父はイギリス三冠馬ニジンスキー

当時の日本の馬産のレベルは決して高くなく、外国産馬といえど名馬と血統の似通った代用種牡馬等の購入が主流の時代にあって、三冠馬の直仔という良血中の良血馬。
外国で受胎し、日本で生まれた馬は「持込馬」と呼ばれ、1970年代当時は外国産馬と同じ扱いで、旧八大競走の中では、有馬記念だけしか出られなかった。
母馬の購入価格は当時の価格で約9000万円という、大レースに出られないにも拘らず破格の値段で落札された。

なお、持込馬がクラシックなどに参戦できるようになったのは1984年のことである。


競走馬時代

3歳(1976年)

1976年の7月にデビュー。騎手は引退まで一貫して中野渡清一が務めた。

3歳王者を決める朝日杯3歳ステークスでは、2着に13馬身も突き放しての圧勝だった。

4歳(1977年)

出るレースすべてに連勝を重ねたマルゼンスキー。
折りしもこの頃はスーパーカーブームであり、中野渡が「スーパーカーのような乗り心地だ。」と言ったことからマルゼンスキーには「スーパーカー」の異名が付いた。

しかし、当時の規定により、日本ダービーに出られなかった。
この時に中野渡はこう言った。

28頭立て(※)の大外枠でもいい。
賞金もいらない。
他の馬の邪魔もしない。
だからマルゼンスキーを出させてくれ。
そうすれば、どの馬が一番強いのかが分かる。
※当時のフルゲートは28頭。

この年に日本ダービーを優勝したのは、ラッキールーラだった。

日本短波賞では、後の菊花賞馬プレストウコウに7馬身差を付けての圧勝。

クラシックへの出走は叶わなかったが、世代最強は間違いなくマルゼンスキーと認知され、上の世代との対決にも注目が集まった。

1歳上の世代は、トウショウボーイテンポイントグリーングラスの三強TTGであった。
上記の通り、マルゼンスキーにとっては八大競走の中では有馬記念しか出られなかった。
人気投票ではTTGに次ぐ4位だったが、この頃には屈腱炎を発症していたため、引退を余儀なくされた。
獲得賞金は7660万1000円、8戦8勝、無敗での引退。僅か8戦で付けた2位との合計着差はなんと61馬身
その圧倒的な成績から大レースには出走できなかったものの、引退式には「さようなら マルゼンスキー 語り継ごう お前の強さを」との横断幕が掲げられた。

種牡馬時代

イギリス三冠馬ニジンスキーを父に持つ血統からマルゼンスキーは種牡馬となり、1982年には、ホリスキーが菊花賞を優勝し、種牡馬としてGⅠ級競走初勝利を挙げた。
1988年にはサクラチヨノオー日本ダービーを優勝し、自身の無念を晴らす。
マルゼンスキー自体は早期引退の影響もあり最長でも1800mまでのレースしか実績は無かったが、産駒は長距離での実績を残しており、この点がますます八大競争に出走していれば…という声を高める事となった。
こうした競走成績と種牡馬成績が評価され、1990年顕彰馬に選ばれた。
また、ブルードメアサイアーとしても、ライスシャワーウイニングチケットスペシャルウィークを輩出している。

1997年8月21日に心臓麻痺により23歳(旧24歳)で死去した。

主な産駒

GⅠ級勝利馬

※1983年以前は旧八大競走のみ。

ホリスキー('82菊花賞)
スズカコバン('85宝塚記念)
サクラチヨノオー('87朝日杯、'88東京優駿)
レオダーバン('91菊花賞)

母の父として


ライスシャワー
スエヒロジョウオー
ウイニングチケット
メジロブライト
スペシャルウィーク
プリモディーネ
メジロベイリー

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関連タグ

競走馬 顕彰馬

ミドリマキバオー:母の父として登場。ただし名前は「マルゼニスキー」となっている。

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