概要
血統・馬体・能力とも欠点の見当たらない馬と言われ、15連勝を記録した。
早世したため直系は危うい状態だが、死後も母父として数々のステークス馬を送り出した。
馬名の「Buckpasser」は「責任を他人におしつける人」の意。
プロフィール
性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
父 | トムフール |
母 | ブサンダ(母父:ウォーアドミラル) |
生産者 | オグデン・フィップス |
馬主 | オグデン・フィップス |
調教師 | ウィリアム・C・ウインフリー→エドワード・A・ネロイ |
競走成績 | 31戦25勝 |
略歴
1963年
オグデン・フィップスの所有するクレイボーンファーム(ケンタッキー州)で誕生。
父のトムフールはニューヨークハンデキャップ三冠を達成するなど活躍した。
母のブサンダは名牝ラトロワンヌの孫で、雄大な馬体の持ち主だった。
馬体は大きいが素晴らしいバランスで、ニューヨーク競馬協会のマヌエル・ギルマン博士は「バックパサーの馬体に欠点は見当たらない」と述べている。
かつてネイティヴダンサーを手掛けたウィリアム・C・ウィンフリー調教師に預けられた。
1965年
5月13日、アケダクト競馬場の未勝利戦(ダート5.5ハロン)でデビューし、ロンリーギャンブラーの4着に敗れた。
5月29日、アケダクト競馬場の未勝利戦(ダート5ハロン)に出走し1着。初勝利を飾る。
6月8日、アケダクト競馬場の一般競走に出走し1着。
6月28日、アケダクト競馬場のナショナルスタリオンステークスに出走し1着。
7月7日、アケダクト競馬場のトレモントステークスに出走し1着。
7月30日、モンマスパーク競馬場の一般競走に出走し1着。珍しく7馬身の大差をつけた勝利となった。
8月7日、モンマスパーク競馬場のサプリングステークスに出走し1着。
8月28日、モンマスパーク競馬場のホープフルステークスに出走し1着。
9月11日、アーリントンパーク競馬場のアーリントンワシントンフューチュリティに出走し1着。8連勝となる。
9月25日、アケダクト競馬場のフューチュリティステークスに出走し、完璧なレース運びをしたプライスレスジェム(アフェクショネイトリーの半妹)の2着に敗れた。
10月16日、アケダクト競馬場のシャンペンステークスに出走し1着。
1966年
ウィンフリー師が引退し、エドワード・A・ネロイ厩舎に移籍。
2月14日、ハイアリアパーク競馬場の一般競走に出走しインプレッシヴの2着に敗れた。
2月23日、ハイアリアパーク競馬場のエヴァーグレーズステークスに出走し1着。
3月3日、ハイアリアパーク競馬場のフラミンゴステークスに出走。人気が集中し過ぎ馬券売り場が閉鎖されエキシビションとなってしまった。観客は競馬場の経営陣にブーイングを浴びせたが、バックパサーがエイブズホープを差し返して鼻差で1着となると歴史的レースに満足して帰った。次走に向け調整中に右前脚の裂蹄を発症して休養に入り、アメリカ競馬クラシック三冠競走には出走できなくなってしまった。
6月4日、アケダクト競馬場の一般競走で復帰し1着。
6月18日、デラウェアパーク競馬場のレオナルドリチャーズステークスに出走し1着。
6月25日、アーリントンパーク競馬場のアーリントンクラシックハンデキャップに出走し1着。
7月9日、アーリントンパーク競馬場のシカゴアンステークスに出走。古馬との初対戦となったが1着。
7月23日、アケダクト競馬場のブルックリンハンデキャップに出走し1着。
8月6日、アーリントンパーク競馬場のアメリカンダービーに出走し1着。
8月20日、サラトガ競馬場のトラヴァーズステークスに出走し1着。
10月1日、アケダクト競馬場のウッドワードステークスに出走し1着。
10月19日、アケダクト競馬場のローレンスリアライゼーションステークスに出走し1着。
10月29日、アケダクト競馬場のジョッキークラブゴールドカップに出走し1着。
12月31日、サンタアニタ競馬場のマリブステークスに出走し1着。
1967年
1月14日、サンタアニタ競馬場のサンフェルナンドステークスに出走し1着。次走に向け調整中に右前脚の裂蹄を発症して休養に入る。休養中にサンクルー大賞(フランス)に出走する計画が持ち上がった。
5月30日、アケダクト競馬場のメトロポリタンハンデキャップで復帰し1着。15連勝となる。
6月17日、フランス遠征の試金石としてアケダクト競馬場のボーリンググリーンハンデキャップ(芝12ハロン)に出走。初の芝レースだったが、ポーカーの3着に敗れた。関節炎の兆候が見られ、フランス遠征は白紙となった。
7月4日、アケダクト競馬場のサバーバンハンデキャップに出走し1着。
7月22日、アケダクト競馬場のブルックリンハンデキャップに出走しハンサムボーイの2着に敗れた。
9月30日、アケダクト競馬場のウッドワードステークスに出走。ダマスカスに10馬身差をつけられ2着に敗れた。斤量があまりにも厳しくなり、後膝の関節炎も悪化したため引退となる。
1968年
480万ドルの巨額シンジケートが組まれ、故郷のクレイボーンファームで種牡馬入りした。
1978年
3月6日、大動脈破裂により死去(15歳)。
主な産駒
バッカルー エッグトス ナンバードアカウント クイックアズライトニング シルヴァーバック ノークリフ
早世したため産駒数は313頭に留まるが、その内ステークス馬は36頭と1割以上である。
死後も母父として影響を残し続け、日本のマルゼンスキーやヤマニンスキーもバックパサーを母父に持っている。
余談
- レースでは本気で走らず、勝ったと判断するとソラを使うため僅差の勝利ばかりだった。「次こそは」と挑んで来る相手が僅差で負け続けるという、2000年の日本のテイエムオペラオーのような状態が常態化していた。
- 非常に人懐こく、牧場を訪れる人にはすかさず挨拶に行き愛嬌を振りまいていた。