概要
馬体が大きな芦毛の牡馬で良血ではなく「クォーター・ホースの血を引いている」という噂すらあった。日本でのサンデーサイレンスのように自分の血統を切り開いた(父のポリネシアンはプリークネスステークス勝利馬)。
ネアルコ系ではなくシックルという馬の血統でミスタープロスペクターを通じて貴重な父系を繁栄させている。
馬名の由来は「先住民の踊り子」で父と母、母方の祖母から連想されたと思われる。
生涯戦績:22戦21勝。
「グレイゴースト」の愛称で親しまれて人気を博し、1952年度および1954年度のアメリカ年度代表馬に選出された。
生誕
1950年3月27日にアルフレッド・グウィン・ヴァンダービルト2世所有のサガモア牧場(メリーランド州)で生まれ、ウィリアム・C・ウィンフリー調教師に預けられた。
幼少期のことはよくわかっていないが、気分屋で苛立っていると騎手を振り落とそうとすることもあった。
エリック・ゲリン騎手がネイティヴダンサーの主戦となり、1953年アメリカンダービー(エディ・アーキャロ騎手)以外は彼が騎乗。
戦績
1952年
4月19日、ジャマイカ競馬場(ニューヨーク州)のダート1000mでデビュー。調教から良い動きを見せ、1着。
4月23日、ジャマイカ競馬場のユースフルステークスで1着となり2戦目で重賞制覇を果たすが、前肢にソエ(骨膜炎)が出て休養に入る。
8月4日、サラトガ競馬場(ニューヨーク州)のフラッシュステークスで復帰し、1着。
8月16日、サラトガ競馬場のサラトガスペシャルステークスで1着。
8月23日、サラトガ競馬場のグランドユニオンホテルステークスで1着。
8月30日、サラトガ競馬場のホープフルステークスで1着。
9月22日、ベルモントパーク競馬場(ニューヨーク州)のフューチュリティステークスで1着。ダート1300mの世界タイレコードを記録。
10月22日、ジャマイカ競馬場のイーストビューステークスで1着。デビューから無敗、9戦9勝を記録。その後はカリフォルニア州で休養に入る。
1953年
4月18日、ジャマイカ競馬場のゴーサムステークスで1着。
4月25日、ジャマイカ競馬場のウッドメモリアルステークスで1着。
5月2日、チャーチルダウンズ競馬場(ケンタッキー州)のケンタッキーダービーで2着。生涯唯一の敗北となった。
5月16日、ベルモントパーク競馬場のウィザーズステークスで1着。
5月23日、ピムリコ競馬場(メリーランド州)のプリークネスステークスで1着。アメリカ牡馬クラシック三冠の1冠を獲得。
6月13日、ベルモントパーク競馬場のベルモントステークスで1着。アメリカ牡馬クラシック三冠の2冠を獲得。
7月4日、アケダクト競馬場(ニューヨーク州)のドワイヤーステークスで1着。
7月18日、アーリントンパーク競馬場(イリノイ州)のアーリントンクラシックステークスで1着。
8月15日、サラトガ競馬場のトラヴァーズステークスで1着。8馬身差の圧勝。
8月22日、ワシントンパーク競馬場(イリノイ州)のアメリカンダービーはゲリン騎手の騎乗停止処分でアーキャロ騎手に乗り替わったが1着。再び前肢にソエが出たので翌年4月までサガモア牧場で休養した。
1954年
5月7日、ベルモントパーク競馬場のダート1200mで8ヶ月ぶりに復帰し、1着。
5月15日、ベルモントパーク競馬場のメトロポリタンハンディキャップで1着。59kgの斤量が祟って伸びを欠いたが、最終直線で7馬身差を逆転しクビ差で勝った。レース後ソエが再発し休養に入る。凱旋門賞出走が計画され、ウインフリー調教師がフランスへ視察に行った。
8月16日、サラトガ競馬場のオネオンタハンディキャップで1着。62kgの斤量を負ったが9馬身差の勝利だった。
8月下旬、ネイティヴダンサーにハ行が認められ、前肢の屈腱炎が判明。フランス遠征は中止され、引退が決定された。サガモア牧場で種牡馬となる。
種牡馬時代
種牡馬としてはレイズアネイティヴやナタルマ、ダンシングキャップなどを輩出。
特筆すべきはナタルマであり、世界的な種牡馬ノーザンダンサーの母親にあたる。
ノーザンダンサーにとってネイティヴダンサーは母方の祖父にあたり、ダンサーの部分も祖父に由来する。ノーザンテーストはノーザンダンサーの子であるためネイティヴにとっては曽孫にあたる。
ノーザンダンサーの子孫=ネイティヴダンサーの子孫という構図になり、かれが後世に与えた影響は今に続く競馬の血統そのものといえる。
その他、レイズアネイティヴは直系のミスタープロスペクターの流れがアメリカや欧州で繁栄しており、日本で活躍した子孫にはキングカメハメハ、エルコンドルパサーの二頭が出ており(どちらもミスタープロスペクター直系のキングマンボ産駒)、キングの影響もあって日本でも繁殖が進んでいる。
父譲りの芦毛・ダンシングキャップは競走ではあまり名を残せず、日本で種牡馬入りする。
彼の死後、祖父譲りともいわれるとある怪物が地方は笠松で誕生した。「芦毛の怪物」にして祖父と同じくアイドル的存在となり伝説となった馬「オグリキャップ」である。
一時期は「祖父の隔世遺伝」とまで言われた。
最期
1967年11月14日、激しい疝痛を起こしてペンシルベニア大学に運ばれ、腸閉塞の手術が行われる。
手術は成功したが衰弱が激しく、11月16日に死去。後に小腸癌だったことが判明している。
余談
アメリカンダービーの乗り替わり
アメリカンダービーで乗り替わったエディ・アーキャロ騎手は過去に「ネイティヴダンサーはサイテーションと比べたら大した事ない」と言ってファンのヘイトを集めており、この人選には抗議が殺到した。わざと負けたと看做されればテロに怯えて一生を送らねばならず、「負けたらホームレス」と覚悟してレースに臨んだ。
馬券発売中止
オネオンタハンディキャップではネイティヴダンサーに人気が集中し過ぎ、主催者は馬券を発売しなかった。法律で単勝の配当は1.05倍以上と決められており、発行すると赤字になると判断したためである。
人気の秘密と異名
ネイティヴダンサーはアイドルホースであり、ファンクラブがあり、ニュース雑誌「タイム」の表紙にも載った。
当時のテレビは白黒テレビで、栗毛や鹿毛は分かりにくかったが芦毛のネイティヴダンサーははっきりと見え、テレビ映えがした。
先程まで後ろにいたはずがいつの間にか1着を取っていたことも相まって「グレイゴースト」と呼ばれた(「グレイファントム」とも)。
猫とネイティヴダンサー
馬と猫の絡みはノーザンテーストやメイショウドトウなどが知られるが、ネイティヴダンサーにも逸話がある。
厩舎に住み着いた黒い野良猫がネイティヴダンサーの馬房で子を産んだが、その中に灰色の子がいた。その猫はそれまで黒い子しか生んでいなかったため「グレイゴーストの子なのでは」と冗談が飛び交った。
ダンサーという名前
彼の子孫にはダンサーもしくはダンシングやダンスという言葉が入る馬も少なくない。
ノーザンダンサーやダンシングキャップ、少し後の子孫にダンシングキイとその子のダンスインザダークなどがいる。
生涯唯一の敗北
ケンタッキーダービー出走時は不調で、ほかの馬にぶつかる。うまく前に進めないなどあまりいい走りではなく、ダークスターにアタマ差(約40㎝)で2着になった。
これにはアメリカ中が衝撃を受け、ファンは比喩ではなく絶望したという。
ゲリン騎手は批判され、ニューヨークタイムズに「マンノウォーが敗れてからというもの一頭の馬がこれほど世間を揺るがした例はなかった」という記事が載った。
- マンノウォーは戦前に活躍した馬でネイティヴダンサーと同様負け知らずだったが、サラトガ競技場のサンフォードメモリアルステークスで敗北。「チャンピオン」と呼ばれたマンノウォーの唯一の敗北であり、サラトガ競馬場は「チャンピオンの墓場」と呼ばれ、後々まで最強馬がこの競馬場で負けるジンクスが続くことになった(当時はテレビなどがなく知っていた人が限られていた。)。