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※実在した著名人のため、詳細は専門の資料等を参照して頂きたい。


経歴

1929年2月6日生まれ。

現在の東京都北区出身。


父親は青森県で競走馬の生産牧場を経営し、馬主としても活動していた大川義雄。

祖父は日本の製紙王とも言われた大川平三郎、曽祖父は渋沢栄一という実業家一族。

幼少の頃から競走馬を間近に見て育ち、父親に連れられて競馬場にも通っていた。


戦後父の牧場を継いでオーナーブリーダーとなることを志したが牧場が人手に渡ることとなり、大学卒業後は一般企業へ就職。

入社3年後の1955年に退社し、当時の明治座社長・新田新作の秘書となる。

その年、新田の所有していた4歳馬で、前年の朝日杯3歳ステークスメイヂヒカリ号はクラシック出走を控えていた。

しかし皐月賞目前の時期に飛節へ肉腫が出来ていることが判明し、調教師からの出走回避提案を受けた大川氏が社長を説得。

それが功を奏したかは定かではないが、その後メイヂヒカリは回復して菊花賞で2着を10馬身で突き放す大勝利を挙げ、古馬になってからは天皇賞(春)、そして新たに創設された中山グランプリ(現・有馬記念)の初代勝ち馬となった(1990年に顕彰馬に選出)。


その後新田の逝去などもあって転身を考えるようになり、1957年に日本短波放送の解説者となる。

さらに競馬新聞社のホースニュース社と予想家契約を結び、1961年9月3日付の「ホースニュース・馬」で初のパーフェクト予想を達成。

週刊誌に「競馬の神様」と記事にされた。

1981年に競馬予想会社を設立、1994年以降はフリーとなったが、それ以前よりスーパー競馬などフジテレビ競馬中継・競馬番組に解説者として長らく出演し親しまれた。日刊スポーツ専属評論家として活動した。


1999年12月21日、会食中に急性の脳出血を発症し病院に運ばれるも死去した。

また、遺していった有馬記念の予想はグラスワンダーを本命に推しており、最後の予想は見事に的中。自身への手向けとなった。


評論家として

予想屋と呼ばれることを嫌い、あくまでも「競馬評論家」であることに強い自負を抱いていたとされる。

動物としてのが好きで競馬業界に入ったといわれており、馬の体型を見ただけで体調・故障・先天的障害を見抜いた事もあるとされる。

基本的には自身の相馬眼とレース展開の予想から印をつけていくタイプであったようで、精神力で走る競走馬への評価は低くなりがちであったが、1日の全レース連複的中を通算4度達成するなど、冴えている時の予想は正に神がかっている。

自分の予想を元にして馬券を買うファンへの作法として自らも予想通りの馬券を買うことを常としていたようで、晩年のテレビ出演時には「3億勝って4億負けている」と述べている。


1992年の菊花賞では、キョウエイボーガン号がミホノブルボン号の前につけて逃げを打った。結果的にミホノブルボン号はかかってしまい、ライスシャワー号の2着となり、当該馬はクラシック三冠を逃すことになる。このことに関して、氏は「ブルボンに明らかな不利があった」「くだらない馬が逃げたばっかりに」と発言している。


1997年のジャパンカップでの試合直前に派手な馬っ気を起こした上に1着となったピルサドスキー号について、あれは発情ではなく「俺が一番強い!俺が王様だ!」というアピールを他の出走馬に対して誇示するための、動物行動学的見地に沿った行動であったと分析している。


メジロライアン号との関係

メジロライアンといえば大川慶次郎」と言う競馬ファンもいるほど、大川氏のメジロライアンに関する逸話は多いとされる。


その中で最も有名なエピソードとして1990年の有馬記念が挙げられる。

オグリキャップ号がラストランで奇跡の復活勝利をあげたレースとして有名であるが、直線でオグリキャップが先頭に立ってゴールへと向かっていくさなか、フジテレビの競馬中継番組であるスーパー競馬の実況中に「ライアン!ライアン!」という大川氏の声が流れた。

後日大川氏は「放送しているのだから2着の馬も言わなきゃいけないから」ということでライアンの名前を叫んだと説明した。

また大川氏が闘病中に、メジロライアンがアイネスフウジン号を下して勝った弥生賞を見て勇気をもらったともいわれている。


そして大川氏が亡くなった際には、棺内添えられた衣服のポケットにメジロライアンのたてがみが入れられたとされる。


シンザン号との関係

上記のメジロライアンほどではないが、シンザンとの逸話も有名。

シンザンと言えば中央競馬史上二頭目・戦後初の三冠馬であり、同時に初の五冠馬となった名馬であるが、実は大川氏はシンザンを一度も本命には打たなかった(この事は長く知られていなかったが、ミスターシービーが三冠を取った際に「今だから言えますけど」と自ら明かしている)。

シンザン初の重賞勝利となったスプリングステークス前の調教にて大川氏は初めてシンザンを見たのだが、背中がへこんでひどく見劣る体形と感じていた。(「馬体が好みではなかった。」と正直に語っている。)またこの時の調教の走破タイムが悪かったこと、それまでのローテーションが2か月半の間に4回レースに出走していたという事もあり、「とてもクラシックを狙う馬の使い方ではない。」と思い、シンザンを低く評価していた。

スプリングステークスを勝利しても、クラシック三冠を取っても、最終的に五冠馬となるレースでも大川氏はシンザンに本命を打たなかった。「この次は、きっとシンザンは何かに負けるだろう。」という思いを常に抱いており、予想の際に「負かすとすれば、この馬だろう。」という馬を探すことに終始していた。

大川氏の思いにはシンザン自身の特徴と、調教師の武田文吾氏のシンザンへの考え方にも要因がある。シンザンは所謂叩き良化(レースに出走することで馬の調子が上がる)タイプの馬だったので、調教の時はタイムが悪かったのだ。(調教嫌い、というか無駄な走りをしない馬だったらしい。)また、武田調教師は「馬の仕上げをするのに一回の調教では取れない太めが、レースに使うと三回調教をしたくらいに解消する」と公言しており、大川氏はこの部分について、「レースを調教代わりに使っている」と立腹していたのだ。(競馬評論家や競馬ファンとしてはレースで勝つと予想して馬券を買うのだから当然な話である。当時の馬券は枠番連勝単式だったので、2着では外れになってしまうという事情もあった。)

結果としてはシンザンは19戦15勝2着4回のパーフェクト連対で五冠を達成したわけだが、これについて大川氏は「私はシンザンから調教の時計は実戦とはあまり関係がない事着差は決して馬の能力のバロメーターにはならない事を教えてもらった」と語っている。そして最後に

  • シンザンにはその体型に勝る大きなものが内在していた。間違っていたのは私がそれに気がつかなかったことの方だった。

と結論付けている。



フィクションにおける大川慶次郎

競馬評論家としてその予想法とキャラクターはファンに愛され、90年代の競馬創作では彼をモデルにした解説者が多数出演している。

ギャグ寄りの扱いではこの上なくライアンを愛する変な人、くらいの扱いだったりもするが、ストーリー寄りの扱いでは馬の調子や展開は的中させることが多い。


ウマ娘プリティーダービー」で、メジロライアン号をモデルにしたメジロライアン(ウマ娘)の育成シナリオにおいて、シニア級で有馬記念に勝利すると「ベレー帽の紳士」という立ち絵の無い観客が「ライアン!ライアン!」と声をかける一節がある。


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