データ
生年月日 | 1990年5月13日 |
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英字表記 | Dantsu Seattle |
性別 | 牡馬 |
毛色 | 鹿毛 |
父 | シアトルスルー(Seattle Slew) |
母 | コールミーゴッデス(Call Me Goddess) |
母の父 | プリンスジョン(Prince John) |
競走成績 | 14戦8勝 |
没年月日 | 2020年9月24日(馬齢30) |
概要
93世代の競走馬。1995年の宝塚記念を制した不屈のグランプリホース。
馬名は冠名「ダンツ」に父の名の一部「シアトル」を合わせたもの。
騎手は乗り替わりが多かったが、現役最終年は村本善之騎手が乗り続けた。
鹿毛の馬体に顔の太い流星、右前以外の三本の白い脚が特徴。父に似て脚が外向しており、脚元が弱かった。
アメリカ・デルマーで開催されていたバレッツ社のセールで鹿児島の実業家・山元哲二氏が購入し、日本へ輸入した良血の外国産馬(マル外)。
父はアメリカ史上初の無敗トリプルクラウンにしてボールドルーラー系名種牡馬シアトルスルー。
母コールミーゴッデスは名種牡馬プリンスジョンと米オークス(CCAオークス)を制したマルシュアの間に生まれた良血。
半姉に仏GⅠ「サンタラリ賞」勝ち馬のスマグリーがいる。
レースでは耳覆いのない桃色のメンコを装着しているが、これは管理していた山内研二調教師のトレードマークで、山内家の家紋である三つ柏紋もあしらわれている。
現役時代
2歳(旧3歳)
脚元が弱いためなかなか強度の高い調教が積めないまま1992年10月17日、岡部幸雄騎手を鞍上に東京競馬場の新馬戦でデビュー。脚元負担を考慮してダート1400mのレースを選んだが、走ってみれば4馬身差という圧勝だった。
1ヶ月後の500万下「赤松賞」(東京競馬場 ダート1400m)でも1馬身3/4突き放して完勝し、オープン入り。
思うような調教ができない中、素質だけで十分に強いダンツシアトルの姿に陣営の期待は高まったが、残念ながらというかやはりというか、程なく骨折してしまい長期休養を余儀なくされた。
3歳(旧4歳)
素質十分ながら脚元が思うようにならず、クラシックを棒に振ってしまったダンツシアトルは1993年9月6日、900万下「苗場特別」(新潟競馬場 芝1200m 田中勝春騎手)で約10ヶ月ぶりにレース復帰。初の芝レースは4着に終わった。
中11日の900万下「浦安特別」(中山競馬場 芝1600m)では蛯名正義騎手で快勝。
10月のオープン「アイルランドトロフィ」(東京競馬場 芝1600m。武豊騎手)で6着に敗れた後、再び蛯名騎手を背に1500万下「ウェルカムステークス」(東京競馬場 芝2000m)に出走。初の2000m戦も終始前につける強い競馬で勝利し、再びオープン入りを果たした。
4歳(旧5歳)
1994年1月23日、GⅡ「日経新春杯」(阪神競馬場 芝2500m 武豊騎手)で重賞に初挑戦。道中中段で好位差しを狙うものの、距離が長かったか伸びずに7着敗北。
続いて2月5日、ダートのオープン「すばるステークス」(阪神競馬場 ダート1400m 田原成貴騎手)で8着に敗れた後、2月18日の芝オープン「バレンタインステークス」(東京競馬場 芝1800m)では久々に岡部騎手とコンビを組み、3着。
しかし、間隔をつめてレース出走を続けたことが祟ったのか、今度は競走馬の癌とも言える屈腱炎を発症。再び長期休養を余儀なくされ、再びオープン落ちしてしまうことになった。
5歳(旧6歳)
地方移籍も検討されたダンツシアトルだったが、1年間の休養を経て村本善之騎手と新コンビを結成し中央のレースに復帰。阪神淡路大震災の影響で阪神競馬場が使えなくなったこともあり、この年の出走レースは全て京都競馬場だった。
1995年3月26日、1500万下「道頓堀ステークス」(芝1600m)で復帰。12番人気と全く期待されていなかったが、先行策から押し切って快勝し、みたびオープン入り。
4月16日のオープン「陽春ステークス」(芝1600m)では最終直線のニホンピロプリンスの落馬で最後方に押し出される不利を受けながら、猛烈に追い込んで3着。敗れてなお、その強さを見せつけるレースになった。
4月30日のオープン「オーストラリアトロフィー」(芝1800m)ではトップハンデを背負い、終始飛ばして2番手につけながらも更に上がり最速の脚を繰り出し、逃げる軽ハンデのアロートゥスズカを軽々交わして3馬身千切る圧勝。
5月13日、GⅢ「京阪杯」(芝2000m)では1つ下の世代のオークス馬チョウカイキャロルに1馬身半の差をつける見事な走りで快勝。ようやく重賞馬となることが出来た。
そして、運命の日がやってくる。
第36回宝塚記念~這い上がった先に待っていたもの
1995年6月4日、ダンツシアトルの陣営は初めてのGⅠレースに、夏のグランプリ「宝塚記念」(芝2200m)を選んだ。
最も注目を集めていたのが、この年の天皇賞(春)を制してファン投票1位に推されたライスシャワー。これまでの敵役扱いから一転、レースの主役として期待され、距離が短いとの不安もある中で3番人気に推された。
GⅠ馬の出走は他にダンツシアトルと同じく屈腱炎を患った皐月賞馬ナリタタイシン、前年の「天皇賞(秋)」覇者ネーハイシーザーの同期2頭に、京阪杯で戦ったチョウカイキャロルを加えた計3頭。
1番人気は前走の安田記念で2着に入った同期サクラチトセオーで、他には1つ下の世代から同じシアトルスルー産駒のタイキブリザード、トニービン産駒エアダブリン、更には上の世代のフジヤマケンザン、アイルトンシンボリらも出走。
そんな中で、ダンツシアトルは京阪杯での強さから2番人気に推され、実況を担当した関西テレビ・杉本清アナウンサーの本命馬「私の夢」にも選ばれた。
スタートすると、ダンツシアトルはハナを切るトーヨーリファールに続き、タイキブリザードやネーハイシーザーと一緒に前につけてレースを引っ張っていく。注目のライスシャワーはサクラチトセオー、ナリタタイシンとともに後方につけた。
しかし、レースが第3コーナーに差し掛かったところで、場内は悲しみの悲鳴に包まれた。春の天皇賞と同じように前に出ようとしたライスシャワーがつんのめって転倒、競走中止になってしまったのだ。
驚き、叫び、ざわめき…異様な雰囲気の中、それでもレースはかつてないハイペースで続いていた。ダンツシアトルは最終コーナーを最内最短距離で曲がると、直線でタイキブリザードと並んで逃げるトーヨーリファールを捉えて交わす。
杉本アナは「私の夢、ダンツシアトルが内をすくうか!」と実況。
やがて内ラチ沿いをぶち抜くダンツシアトルとタイキブリザードの熾烈な叩き合いとなり、ゴール直前で脚の鈍ったダンツシアトルにタイキブリザードが、そして後方からエアダブリンの差し脚が襲いかかる。
※注意:レース中にショッキングな落馬シーン(02:06~02:12前後)があります。
3頭ほとんど並んでゴールに突っ込み、1着と2着、2着と3着がそれぞれクビ差という大接戦を制したのは、終始ハイペースで飛ばし続けたダンツシアトル。3着エアダブリン、縋る2着タイキブリザードの猛追を、最後に残ったド根性で凌ぎきり、先頭でゴール板を駆け抜けた。
SS(サンデーサイレンス)旋風がクラシックを席巻したこの年、「古馬もSS(Seattle Slew)」と言わしめるシアトルスルー産駒のワンツーフィニッシュでの決着だった。
ダンツシアトルは骨折や屈腱炎を乗り越え、とうとうGⅠ馬、グランプリホースとなった。しかもその勝ち時計2:10.2はビワハヤヒデが前年の宝塚記念でマークした2200mの日本レコードを1秒も縮めるという素晴らしいもの。
ゴールを駆け抜けた16頭のうち、12着チョウカイキャロルまでがコースレコードを更新するというハイペースなレースだった。
ゲスト解説を務めた田原成貴はダンツシアトルについて聞かれ「この馬は凄い素質がある馬で。休養を挟んでメキメキ本調子になって、前走も重賞制覇で」「直線抜け出したダンツシアトルの脚は力強かった」と絶賛。
村本騎手も勝利ジョッキーインタビューで「敵云々というより、レース前から天気だけが心配だった」「本当にいま絶好調で、この休み明け4走ははっきり言って、負ける気はしなかった」と、ダンツシアトルの仕上がりの良さに胸を張っていた。
父シアトルスルーから受け継いだ名馬の素質が苦労の末に花開き、とうとう実を結んだ瞬間だった。
しかし悲しいかな……時が悪かった。
競馬ファンはダンツシアトルではなく、ライスシャワーを見ていた。左前脚が壊れ、苦痛から馬運車にも乗れず、愛した淀のターフの上で迎えることになった名ステイヤーの最期の時を。
杉本アナの「私の夢」が初めて宝塚記念を制した瞬間でもあったが、杉本アナはレース後に「あなたの夢、私の夢、そんな悠長なことを言っている間がなかった」と漏らし、解説の大坪元雄は「ダンツシアトルは勝ったものの、私はやはりライスシャワーの骨折というか痛ましい姿を見せられると、素直に喜べない感じがある」、大川慶次郎氏が「私は予想はあたったんだけれども、なんとも喜べないレース」と語るなど、競馬中継も悲しみ一色に包まれた。
更に、高速決着となったこのレースでは、他の出走馬の故障も相次いだ。3着エアダブリン、14着ネーハイシーザー、最下位ナリタタイシンが屈腱炎を発症して長期休養を余儀なくされ、ナリタタイシンに至っては引退に追い込まれてしまった。
そして、それはダンツシアトルも例外ではなく…ジャパンカップに向けての調整中に屈腱炎が再発し、1997年1月に引退。結局、宝塚記念がラストランとなってしまった。
通算成績:14戦8勝(重賞2勝 GⅠ1勝) 3着2回
生涯獲得賞金:2億8131万3000円
名馬ライスシャワーの悲劇というあまりにも辛い現実の前に、彼の最初で最後の栄光は振り返られることも少なく、日本競馬の歴史の中に埋もれてしまっている。
それでも、父から受け継いだ強く、速く、そして脆い脚で懸命に駆け続け、2度の大怪我を乗り越えて最後の最後に花開いたその素質はあの日、間違いなく輝いていた。
引退後
ケガが多かったこと、完全なアメリカ血統で日本では魅力が少なかったことも有って種牡馬としての引き合いはなく、引退後にJRAが種牡馬として購入して日本軽種馬協会に寄贈。
2006~07年は九州種馬場で、2008年は那須種馬場で、2009年は東京大学大学院農学生命科学研究科付属牧場で繋養され、2010年からは再び九州種馬場で繋養された。
産駒
2006~07年や2010年以降の九州種馬場で繋養されていた時期に、九州産馬の種牡馬として活躍していた。産駒は地方馬がほとんどだが、中央の障害J・GⅠに出走経験のあるオープン馬バルトフォンテン(J・GⅡ阪神スプリングジャンプ3着。J・GⅠ中山グランドジャンプで競走中止、予後不良)のような馬もいた。
2017年に種牡馬を引退した後も引き続き九州種馬場で余生を過ごし、2020年9月24日に老衰のため、30歳で大往生を遂げた。
関連項目
悲劇の影の栄光
(同じように屈腱炎を乗り越えてGⅠ馬となったが、サイレンススズカの悲劇の為に顧みられることが少ない)
(村本善之騎手が騎乗してグランプリ有馬記念を制したが、サクラスターオーの悲劇の為に顧みられることが少ない)
同期のGⅠ馬
ノースフライト(春秋マイル) マーベラスクラウン(ジャパンカップ)
海外の同期
シガー(アメリカGⅠ11勝 グレード制導入後初の16連勝達成)
コマンダーインチーフ(英愛ダービー馬)
ランド (ドイツ馬による史上唯一のジャパンカップ制覇)
同馬主(同冠)&同厩舎
(同じく宝塚記念で唯一のGⅠ勝利を掴んだ)
他関連馬