やるべきことは
一片の挫折も知らない者が
どれほどいるだろうか
茨の道を僕らは生きる
与えられた時間は短くて
チャンスもさほど多くない
この世は理不尽に満ちている
けれど憂いている暇はない
やるべきことはたったひとつ
自分を信じ、自分を貫き
持てる力を出し尽くすこと
《名馬の肖像 2023年天皇賞(秋)より》
プロフィール
生年月日 | 1991年4月21日 |
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死没 | 2011年8月29日 |
英字表記 | Offside Trap |
性別 | 牡 |
毛色 | 栗毛 |
父 | トニービン |
母 | トウコウキャロル |
母の父 | ホスピタリティ |
5代内のインブリード | Prince Bio5×5/Nasrullah5×5 |
競走成績 | 28戦7勝 |
生産者 | 村本牧場 |
馬主 | 渡邊隆 |
母トウコウキャロル、母父ホスピタリティ、祖母ミヨトウコウは渡邊隆氏の父・喜八郎氏の所有馬である。
馬名の意味はディフェンスが相手FWと駆け引きをしてオフサイドの反則を誘う守備戦術のこと。
誕生からクラシックシーズンまで
1991年、北海道新冠町に生まれる。父トニービンの良血馬であり、馬体も見栄えがよくクラシック候補の呼び声も高かった。
1993年12月の中山競馬場でデビューを飾り、初戦・2走目は2着に敗れたものの、3走目で未勝利を脱出。続くセントポーリア賞も快勝し、皐月賞トライアル・若葉ステークスでも勝利を収めてクラシックの切符を手にする。関係者の期待も大きく膨らんでいた。
しかし運の悪い事に、同期には後の三冠馬、「シャドーロールの怪物」ことナリタブライアンがいた。ナリタブライアンが皐月賞、日本ダービーを圧勝して、競馬界の話題を独占する陰で、オフサイドトラップは皐月賞7着、ダービー8着とGⅠの壁に撥ね返されていた。さらにラジオたんぱ賞4着の後、屈腱炎を発症してしまい、休養を余儀なくされる。
屈腱炎との戦い
ここから彼の長い戦いが始まる。クラシックも終了した後の1994年12月に復帰し、ディセンバーS3着、金杯(東)8着の後、バレンタインSで11か月ぶりに勝利したものの、またも屈腱炎が再発。
10か月の休養を挟んで1995年12月のディセンバーSでカムバックしたが(結果は3着)、脚部不安が解消しない為、その1走しただけでまたも11か月の休養を余儀なくされる。
1996年11月の復帰後は、少しは順調に使えるようになったが、故障を恐れて強い調教ができなかった為か、重賞路線で善戦するものの、勝ちきれないレースが続く。そして1997年5月のエプソムカップ6着の後に3度目の屈腱炎を発症してしまう。
気がつけばいつの間にか7歳(当時の馬齢表記)。
ナリタブライアンはもちろん、同期のほとんどはターフを去っている。もう無理だと引退させるのが普通だったかもしれないが、調教師の加藤修甫はどうしてもこの未完の大器を諦めるには忍びなく、現役続行を決断。厩舎一丸となって懸命のリハビリの日が続いた。
久々の勝利、そしてGI挑戦
明けて8歳となった1998年、3度屈腱炎を克服してターフに帰ってきたオフサイドトラップであったが、やはり勝ちきれず2着・3着が続く。
しかし脚元の不安は以前より改善されていた。そこで陣営は、ずっと主戦を続けてきた安田富男から、鞍上を当時の関東リーディングジョッキー・蛯名正義にスイッチ。これが功を奏してか、7月の七夕賞で重賞初勝利を収める。95年2月のバレンタインS以来、実に3年5か月ぶりの勝利の美酒であった。
勢いを駆って、続く新潟記念も快勝し、陣営はいよいよ、4歳時には届かなかったGIに狙いを定めることにした。目標は天皇賞・秋。蛯名がステイゴールドに騎乗する先約があった為、鞍上には柴田善臣を迎え、決戦の日はやってきた。
運命の1998年11月1日
だがここにも強敵が控えていた。サイレンススズカである。
前哨戦の毎日王冠ではエルコンドルパサーとグラスワンダーという2頭の無敗馬を相手に逃げ切って圧勝していたサイレンススズカは、単勝1.2倍という断然の1番人気。対するオフサイドトラップは、重賞連勝中とはいってもローカル重賞、また8歳の高齢とあって12頭中6番人気に甘んじていた。
レースはもちろんサイレンススズカのいつも通りの大逃げで始まった。東京競馬場を埋め尽くした13万人超の歓声の中、快調なラップを刻むスズカを前方に眺め、残りの11頭の騎手はペースを乱されぬよう、虎視眈々とチャンスを狙い続けるが、スズカの勢いは衰えることなく、このまま逃げ切り濃厚かと思われた。
しかしここでアクシデントが起こった。4コーナーの大欅付近を過ぎたあたりで、スズカはガクンとつんのめったかと思うと、たちどころにスローダウンしてゆく。故障発生である。
場内の歓声が一転して悲鳴とどよめきに変わる中、11頭の騎手たちは混乱しながらも作戦変更を余儀なくされた。
ほとんどの騎手がインコースで止まりかけているスズカを避けて、アウトコースに膨らむ形になったが、中団にいたオフサイドトラップの柴田は、そのガラ開きになったインコースに突っ込んで、距離のロスなくトップに立ち、最後の直線に入る。
体勢を立て直した一団の中で、蛯名のステイゴールドが猛追してきたが、オフサイドトラップはそれをしのぎ切り1着でゴールイン。
8歳(現行の馬齢表記なら7歳)での天皇賞勝利は史上初の快挙。加藤を始め、この馬の能力を信じて屈腱炎との長い長い戦いを克服した厩舎スタッフ一同の努力と執念の賜物の勝利であった。しかし……
悲劇の勝者
場内のほとんどの観客の目は、サイレンススズカの方に向けられていた。馬運車に乗せられてゆくスズカの姿を見て、最悪の事態を予想した者も少なくなかった。
ウィニングサークルでの勝利騎手の柴田のインタビューの際も場内の異様などよめきは収まらず、柴田は「数少ないオフサイドトラップファンの皆さん、応援ありがとうございました」と自虐的なジョーク混じりのコメントで場を少しでもなごませようとするなど、もはやどちらが主役なのかわからない有様だった。それどころか、レース直後のフジテレビのインタビュー中における、柴田の「笑いが止まらない」という表現が、サイレンススズカのファンを中心にかなりの顰蹙を買ってしまった。しかし、この発言自体にサイレンスズカを貶す意図は一切無く、その後には寧ろ安否を心配する旨の発言も同時にしているので、この部分だけを切り取って柴田やオフサイドトラップを非難するのは全く筋違いと言って良い事である。
そして後刻、サイレンススズカが予後不良になったとの発表がなされる。翌日のスポーツ新聞はどこも1面で大々的にこの稀代の快速馬の悲劇的な最期を取り上げ、勝利者であるはずのオフサイドトラップの方は、中面の競馬欄ではもちろんその快挙を称えられたが、ニュースバリューとしては2番手扱いであった。
3度の屈腱炎を乗り越えて掴んだ勝利、だがそこにあったのは悲劇の敗者に当てられたスポットライトによってかき消された、祝福されぬ栄光であった。
そして同年末の有馬記念10着を最後にオフサイドトラップはターフを去り、ブリーダーズスタリオンステーションで種牡馬生活に入るが、活躍馬を残せず2003年に種牡馬からも引退。観光牧場の日高ケンタッキーファームで功労馬生活に入る。
同ファームが経営難により2008年末に閉鎖となった後は、新冠町の明和牧場に移動し、2011年8月に20歳でこの世を去るまで平穏無事に過ごした。その最期はGI馬らしい最期だったという。
「悲劇の勝者」オフサイドトラップ。その懸命に走り続けた姿は、確かに少ないのかもしれないが、ファンの胸に刻まれている。
関連タグ
ダンツシアトル:同じように屈腱炎を乗り越えて第36回宝塚記念を勝利しGⅠホースとなったが、ライスシャワーの悲劇の為に埋もれてしまった。
メジロデュレン:村本善之騎手が騎乗して第32回有馬記念を制したが、サクラスターオーの悲劇の為に顧みられることが少ない。名ステイヤーメジロマックイーンの半兄。
エルコンドルパサー:上記サイレンススズカとの第49回毎日王冠での激闘でも知られるが、実は本馬と馬主が同じである。