次の幕こそ
真ん中に立てないことを
思い悩んでいるのなら
君にこう問いたい
舞台の端や後方であっても
命がけで演じただろう?
いまの力で成し得る
最良の結果を残しただろう?
ならば悲観することはない
次は大きな役を用意した
君のために開演ベルは鳴る
≪名馬の肖像 2002年宝塚記念≫
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概要
1999年4月19日生まれ、父ブライアンズタイム、母インターピレネー。通算26戦6勝。母のインターピレネーは桜花賞に出走した経験もある。
馬名の「フレーム」は英語表記のスペルから「炎」から来ていると思われる。
牧場社長の信岡幸則によれば「決して見てくれのいい馬ではなかったですね。」「イメージ的にはいわゆるサラブレッドというきれいな馬じゃなかったですからね。」らしい。1999年8月、北海道セレクト市場に出場し、ブライアンズタイムの仔を求めていた山元哲二が、税抜き2500万円で落札した。
偶然なのか同じ競りでのブライアンズタイム産駒は当馬のみだったらしい。
2000年デビュー、2001年アーリントンカップで重賞初制覇、皐月賞でアグネスタキオンの2着、日本ダービーでジャングルポケットの2着、菊花賞5着。GⅠで好走すれば、勝ちまでは及ばない結果が続いた。
2002年安田記念でアドマイヤコジーンの2着、GIで3回の2着とシルバーコレクターに成りかけるも、宝塚記念でツルマルボーイを抑えてGⅠ初制覇。善戦マン返上に至った。
GⅠ馬となったことで一皮むけたダンツフレームに更なる活躍を期待する声も大きかったが、これが最初で最後のGⅠ制覇となってしまう。
2003年、5歳となったダンツフレームは春の天皇賞で5着となった後、新潟大賞典で重賞3勝目を挙げる。その後は安田記念5着、宝塚記念7着後に屈腱炎を発症して一度引退した。
本来はこの時種牡馬入りする予定だったが目処はたっておらず、馬主によれば無理に種牡馬にするくらいなら乗用馬にすることも検討して当馬を放牧。
その後、屈腱炎の治りが良かったことと「もう一花咲かせてやりたい」という馬主の拘りによって地方で現役復帰。当初から南関東競馬で復帰する予定だったが、長期間レースを走っていない馬は南関東競馬に転入できないため、まずは荒尾競馬で復帰し、その後南関東に移籍するプランが準備された。地方競馬で活躍して結果を残せば、好条件での種牡馬入りも期待できるという計算があったと言われている。
荒尾では1戦のみ走って2着。その後予定通り南関東の浦和競馬へと移籍した。
だがダンツフレームは南関東では全く結果を残せず、浦和記念9着、東京大賞典14着、川崎記念11着と散々な結果に終わった。この散々な結果を受けて馬主らはようやく本当の引退を決定した。もちろん南関東競馬で惨敗を繰り返したダンツフレームにまっとうな種牡馬へのオファーなどくるはずもなかった。
その後は栃木県の那須にある地方競馬教養センターにて乗用馬となった。地方競馬教養センターは地方競馬の騎手や厩務員の候補生たちが学ぶ場所で、ダンツフレームは未来のホースマンたちを育てる役目を担うことになる……はずだった。
しかし、ダンツフレームにそうした役目を与えられることもないまま彼の生涯は終焉を迎えてしまう。ダンツフレームはラストランとなった川崎記念のときから体温が異常の域を超えており、那須に来た頃には既に体調が悪化していた。そんなダンツフレームを訓練のために活躍させることなどできるはずもなく回復を目指し放牧されていたが、体温はぜんぜん下がらず、精密検査の結果回復困難なレベルの重度の肺炎を患っていたことが判明。もはや手の施しようがないほど悪化していた肺炎は回復することなく、引退から約2か月後の2005年8月28日にこの世を去った。7歳没。
同世代のライバルにアグネスタキオン・クロフネ・ジャングルポケット・マンハッタンカフェなどがおり、最強世代と称されることも多い。これらの馬が種牡馬として実績を残したのに比べれば、GⅠ馬でありながら不遇な晩年だった。
ブライアンズタイムの産駒は90年代から2000年代にかけて活躍し、牡馬は後継種牡馬へと転身したものの、ダンツフレームは種牡馬へなることは出来ないままこの世を去った。もっとも、その後サンデーサイレンスの子孫の勢力が拡大する中、2020年代においてはブライアンズタイムの直系子孫も滅亡へと進んでいる現状である。