マーベラスクラウン
まーべらすくらうん
生年月日 | 1990年3月19日 |
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英字表記 | Marvelous Crown |
性別 | 牡馬→騙馬 |
毛色 | 栗毛 |
父 | ミスワキ(Miswaki) |
母 | モリタ(Maurita) |
母の父 | ハーバープリンス |
競走成績 | 22戦7勝 |
没年 | 2007年(馬齢17) |
93世代の競走馬。史上2頭目となる騙馬のGⅠホース。
父ミスワキは大種牡馬ミスタープロスペクターの子で、自身も凱旋門賞馬アーバンシーなど活躍馬を多く輩出。ブルードメアサイアーとしても優秀で、日本ではサイレンススズカの母父として知られる。
母モリタはニュージーランドのオークス馬で、マーベラスクラウンは持込馬(受胎した牝馬を購入して輸入し、日本で生まれた馬)だった。
栗毛で、顔の中心にまっすぐ伸びた流星と、右前一白(右の前脚のみ白い)が特徴。赤いメンコがトレードマークで、これは同郷同厩の後輩マーベラスサンデーとお揃い。
1992年9月19日、南井克巳騎手を鞍上に阪神競馬場の新馬戦(ダート1200m)でデビューし、見事に初勝利を挙げた。
しかしマーベラスクラウンはとにかく激しい気性の持ち主で、レース中でも無駄な力を使ってしまう悪癖が問題。2戦目のオープン「もみじステークス」ではビワハヤヒデとの対決で3着に入るなどいい走りはするものの、好走どまり。
結局、2歳の間は4戦走り、勝利は新馬戦のみだった。
3歳~セン馬となって接戦を制す
とにかく気性が荒すぎるマーベラスクラウンはある日、調教中に突然暴れだし、乗っていた南井騎手を振り落としてケガをさせてしまった。それを知った馬主の笹原氏は「大きな事故になってからでは遅い」と考えて大沢調教師を説得。 去勢手術が行われ、クラシック戦線は棒に振ることになってしまった。
こうして騙馬となったマーベラスクラウンは気性もいくらかは落ち着き(当社比)、1993年10月16日、鞍上を松永幹夫騎手に替えて500万下「堀川特別」に出走。このレースをハナ差ながら見事に勝ち切ると、続く900万下「北大路特別」もハナ差、1500万下「比叡ステークス」はクビ差といずれも接戦をモノにして一気に3連勝。
晴れてオープン入りしたクラウンは年末のGⅡ「鳴尾記念」で重賞初挑戦。上がり馬として1番人気に推されたクラウンは終盤に追い込みを見せたが、先行していたルーブルアクトにクビ差届かず、2着惜敗。それでも十分に期待できる力を見せた。
4歳初戦は年始めのGⅢ「スポニチ賞金杯(現・京都金杯)」で、エイシンテネシーに1馬身差の2着。
次走はメジロパーマーのラストランとなったGⅡ「日経新春杯」で、ムッシュシェクルの4着。
ここで鞍上を再び南井騎手に戻し、3月のGⅡ「読売マイラーズカップ」に挑戦。直線で猛烈に追い込んでマイル女王ノースフライトに迫るが、僅かクビ差届かず2着。
続く4月のGⅡ産経大阪杯は途中で失速、6着と初めて掲示板を外す。
5月のGⅢ新潟大賞典は ゴールデンアワーと叩き合い、クビ差2着。
そして6月19日、GⅢ東海テレビ金鯱賞に1番人気で出走し、2着フジワンマンクロスに1馬身と1/4の着差をつけ、ついに重賞初制覇。
勢いに乗って夏競馬最大のビッグレース、GⅡ「高松宮杯」に意気揚々と出走。
しかし、このレースでは鞍上がテン乗りの武豊騎手だったこともあってか、団子状態の中から抜け出すのが遅れ、 ナイスネイチャの快走に追い込み届かず3着に敗れた。
2ヶ月の休養をはさみ、秋初戦のGⅡ京都大賞典に出走。最後の直線でアイルトンシンボリに一旦かわされるものの、ド根性で差し返してハナ差で勝利。
そして、マーベラスクラウン一世一代の檜舞台がやってくる。
第14回ジャパンカップ
1994年11月27日、マーベラスクラウンは初のGⅠレースとなるジャパンカップに出走。
この年のジャパンカップは、本来であれば“最強の兄”ビワハヤヒデが日本総大将となるはずだったが、秋の天皇賞で屈腱炎を発症し、引退。他の有力馬もウイニングチケットが同じく屈腱炎でリタイア、ナリタタイシンとライスシャワーは骨折、ベガは宝塚記念を最後に引退、三冠馬ナリタブライアンは有馬記念出走を睨んで回避…等々、有力馬が次々に引退や出走回避を表明。
結果、日本からの出走馬はまさかの日本総大将となったマチカネタンホイザを筆頭にナイスネイチャ、フジヤマケンザン、はては重賞未勝利の善戦ホースロイスアンドロイスと、GⅠウィナーが1頭もいないという珍しい事態になった。
一方、海外からはGⅠ4勝のアメリカ芝最強馬パラダイスクリーク、ブラジルGⅠ4勝で米GⅠ「オークツリー招待」も制したサンドピット、フランスダービー馬エルナンド とその半兄ヨハンクアッツ、ニュージーランドGⅠ11勝の7歳馬ラフハビット、92年のアメリカブリーダーズカップ・ターフ覇者フレイズなど、実績馬が参戦。
また、マーベラスクラウンの半兄グランドフロティラもアメリカ代表として出走することになり、同じレースに2組の兄弟が出走するという、これまた珍しいことになった。
そして、珍事はこれに留まらない。本馬場入場後、なんと日本総大将だったマチカネタンホイザが鼻出血を発症し、競走除外になってしまったのだ。これにより、マーベラスクラウンは6番人気と日本馬で最も人気を集め、言ってみれば日本総大将代理のような立場になった。
レースはフジヤマケンザンがハナを切り、マーベラスクラウンはサンドピット、ロイスアンドロイスとともに前につける。バックストレッチでサンドピットが先頭に立つと、マーベラスクラウンはインコース4番手につけて最終コーナーまで進み、前が垂れて来るのを横目に直線を力強く進み、先頭に立つ。
そして残り2ハロンで後方から上がり最速でパラダイスクリークが、外からは新ミスター3着ことロイスアンドロイスが迫ってくると、マーベラスクラウンは馬体を合わせて叩き合いに入った。ロイスアンドロイスが残り50m付近で遅れ、マーベラスクラウンは横にピッタリとついたパラダイスクリークの豪脚を根性で凌ぎきり、ハナ差で勝利を掴み取った。
(ちなみに半兄グランドフロティラはナイスネイチャと並んで8着同着だった)
日本馬のジャパンカップ制覇はトウカイテイオー、レガシーワールドに続く3年連続5頭目。騙馬のGⅠ制覇、ジャパンカップ制覇はどちらもレガシーワールドに続くJRA史上2頭目。
南井騎手は引退後、「優駿」のインタビューで「ジョッキー時代のベストレース」にこのマーベラスクラウンのジャパンカップを挙げている。
そして、この栄光がマーベラスクラウンの最後の勝利となった。
ジャパンカップの激走の代償か、マーベラスクラウンは限界を迎えた脚元を癒やす為に10ヶ月の長期休養を余儀なくされた。
1995年10月、GⅡ「京都大賞典」で復帰するが、往年の勝負強さは戻らず10着惨敗。
田原成貴騎手に乗り代わってGⅠ「マイルチャンピオンシップ」に出走するも18頭中16着と大惨敗。
年末のGⅡ「鳴尾記念」は善戦するが、根性は鳴りを潜めてしまい粘りきれず4着。
そして再び脚元不安を生じ、地方競馬の 船橋競馬場・新井康夫厩舎へと移籍。
1996年12月4日、同期の砂の女王ホクトベガ参戦に沸いた交流重賞「浦和記念」(浦和競馬場)で復帰。新馬戦以来のダートレースで、ホクトベガからは16馬身以上突き放される6着に終わった。
翌1997年1月27日、船橋競馬場の地方重賞「報知グランプリカップ」に出走、レース中に故障し、競走中止。これがラストランとなった。
生涯成績:22戦7勝
中央成績:20戦7勝 2着5回 3着2回
去勢後は気性の荒さが勝負根性の強さといういい方向に変わり、全7勝中4勝がハナ差、1勝がクビ差であり、2着5回のうちクビ差惜敗が3回と、接戦が多かった。
騙馬のため種牡馬になれなかったマーベラスクラウンは北海道の中橋清牧場で乗馬、功労馬として余生を過ごす。
2000年12月6日、B’zの11thアルバム『ELEVEN』がリリース。そのジャケットに描かれた競走馬「B'z Eleven号」は、第14回ジャパンカップで勝利したマーベラスクラウンの姿をモデルに描かれた。
2007年6月2日、マーベラスクラウン死去。17歳だった。
マーベラスサンデーとの縁
後の大種牡馬サンデーサイレンスの初年度産駒だったマーベラスサンデーは早田牧場新冠支場で生まれたが、その体躯の貧弱さから買い手がつかなかった。
そこで、早田牧場では同じ新冠支場で生まれたマーベラスクラウンの縁を頼って大沢調教師に頼み込み、入厩の確約を取り付けることに成功。
すると、今後は大沢調教師がマーベラスクラウンの馬主である笹原貞生氏に話を持ちかけ、マーベラスサンデーの購入が決まった…という経緯がある。
また、マーベラスサンデーのトレードマークである赤いメンコは「どこにいてもわかるように」と古川代津雄厩務員が考えたものだが、先輩のマーベラスクラウンも同じ赤いメンコを着用していた。