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もしも宿敵がいなかったら、お前は当代随一の「怪物」になっていただろう。

もしも二冠を制することがなかったら、お前は永遠に脇役の座に甘んじなければならなかっただろう。


ひるむことはないタケホープ、誇るがよいタケホープ。

お前は紛れもなく、昭和48・49年を駈け抜けたもう一頭のヒーローなのだ。


あのカミソリの如き一瞬の斬れ味を、あの稀代のステイヤーとしての血潮を。

いざタケホープ、伝えてくれ、新しき世代の力強さの内に。


概要編集

1970年3月24日生まれの競走馬

父インディアナ、母ハヤフブキ。

通算19戦7勝。


1972年7月にデビューし新馬戦を1番人気に応えて快勝するが、長距離血統である父インディアナの影響かなかなか勝ち上がれず、2勝目を上げたのは年が明けた1973年1月の200万下条件戦の若竹賞での事だった。その後、皐月賞を目指して東京4歳ステークスに出走したが3着、弥生賞はその後最大のライバルとなり、同年当時社会現象にまでなっていた大人気馬ハイセイコーの前に7着と敗れ、皐月賞出走は叶わなかった。


皐月賞に出る事ができなかったタケホープは日本ダービー出走をかけて、東京競馬場で行われた四歳中距離特別に出走し、鼻差で勝利する。ダービー直前、周囲はハイセイコー圧倒的人気の中、主戦騎手の嶋田功は、かつての先輩騎手で引退後は競馬評論家に転じていた渡辺正人に、


ハイセイコーが四つ脚なら、こっち(タケホープ)だって四つ脚だよ


と述べるほか、管理調教師の稲葉幸夫も勝算があったという。


そして臨んだ1973年の日本ダービー、圧倒的1番人気であるハイセイコーを後ろから差し切り、ダービーを制した。


この勝利でハイセイコーの敵役・悪役のレッテルを貼られてしまう。秋シーズンは京都新聞杯(当時は10月開催で菊花賞トライアルだった)から始動しハイセイコーと再び対決したが、ハイセイコーが2着だったのに対し、タケホープは6番人気と低評価だった上に8着と大敗した。この京都新聞杯の結果が影響したのか、本番たるクラシック三冠最終戦の菊花賞では、主戦の嶋田が落馬負傷するアクシデントで急遽武邦彦(武豊の父)に乗り替わった事も不安視されて、6番人気と低評価だった。だが、レースでは中段で待機し、先に抜け出したハイセイコーを追うようにして最後の直線からスパート、ゴール前の接戦にてハイセイコーを鼻差で下し、菊花賞を制して二冠馬となった。(ダービー・菊花賞の二冠馬は戦前の名馬クリフジとタケホープのみである。)同年、年度代表馬選考ではハイセイコーを推す声があったが、ダービーと菊花賞の二冠の重みもあり、タケホープが年度代表馬となっている。


1974年は初戦のアメリカジョッキークラブカップを勝ち、続く中山記念ではハイセイコーが中距離特性を生かして大差勝ちをやられ、迎えた1974年天皇賞・春では自身の長距離適性の差を活かしてハイセイコーを破り優勝、しかしこれがタケホープの最後の勝利ともなってしまった。


その後屈腱炎を発症するなどで精彩を欠き、最後のレースとなった有馬記念では優勝したタニノチカラの2、3着争いでハイセイコーとタケホープはぶつかるが、最後ハイセイコーが首差かわしていた。


ライバルのハイセイコーとは4勝5敗。うち3勝は前述のダービー・菊花賞・天皇賞と現在のG1である。


引退後は種牡馬となるものの、父インディアナの重いステイヤー血統だったことから繁殖牝馬が集まらず活躍馬を出せなかった。代表産駒は1986年のアルゼンチン共和国杯で2着に入ったミナガワローレル。1994年に死亡。


ダービー・菊花賞の二冠馬は以降48年間(2021年現在)出ていない日本競馬界最長ジンクスで、七夕賞の1番人気26連敗を遥かに超えるジンクスとなっている。


関連イラスト編集

ウマ娘化(非公式)

最も運をあるウマが勝つ


関連項目編集

競走馬 ハイセイコー


ライスシャワー

しばしばタケホープと比較される。

同馬もミホノブルボンの菊花賞優勝やメジロマックイーンの天皇賞・春3連覇を阻み、ヒール役として記憶された。

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