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ウマ娘プリティーダービーに登場するウマ娘「スーパークリーク」については、スーパークリーク(ウマ娘)の記事へ。


概要

1985年生まれの日本の競走馬

1987年から日本中央競馬会(JRA)所属となった。(88世代)

1988年の菊花賞で当時19歳8ヶ月だった主戦の武豊騎手に初のGⅠレース勝利をもたらし、武にとって思い入れ深い馬となった。

1989年(平成元年)には同い歳のオグリキャップ、一つ上のイナリワンらと鎬を削り、平成三強と呼ばれた。

1990年に競走馬を引退。種牡馬となったが活躍馬を出すことはできず、2003年頃に引退した。

2010年に死去。


鹿毛の大柄な牡馬で、顔の大きさがよく指摘された。

生まれつき左前脚の外向という障害を持っていた。

父:ノーアテンション、母:ナイスデイというステイヤーの血統だが、中距離戦にも対応できるスピードを持ち「高速ステイヤー」と呼ばれた。

主な勝鞍は1988年菊花賞、1989年天皇賞(秋)、1990年天皇賞(春)


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ヒーロー列伝 No.30

逆指名。

僅かデビュー2年目の秋のことです。菊花賞をどの馬で行くか迷ってた。

結局一頭ずつ見てまわることにして、最後がスーパークリークだったんです。

無意識のうちに最後まで残しておきたかったんでしょうね。

あの時僕が行ったら、袖を加えてぐいぐいと何度も引っ張るんです。

「どこへ行くんだ。もう他に見る馬はいないだろう。

自分と一緒にいればいいじゃないかって」。そんな感じでした。

向こうのほうが、一足先に僕を乗せることに決めてたようです。

ともかく僕の初めてのGIタイトルは、スーパークリークがもたらしてくれた。

結局、いい時も悪い時もふくめて12回くらい乗ったかな…。

オグリキャップ、イナリワンとの3強対決の第100回天皇賞・秋も、

スーパークリークで勝ってますしね。

そういう意味じゃこの馬が一番の相棒といえるかもしれませんね。

武 豊


プロモーションCM

88年、菊花賞

もしもその馬が、その男に出会わなかったら――

もしもその男が、その馬に出会わなかったら――

天才を天才にした馬――――スーパークリーク。

本当の出会いなど、一生に何度あるだろう?

― JRAプロモーションCM 「The LEGEND 菊花賞編(2013年)」 より


経歴

※馬齢・レース名は現役当時(旧表記)のもので記す。

1985年5月27日北海道沙流郡門別町(現・同郡日高町)内の牧場にて誕生。

イギリスクラシック三冠を達成したニジンスキー号の孫世代の一頭でフランス競馬界において2400m以上で活躍したステイヤー・ノーアテンション号を父に持ち、菊花賞・天皇賞(春)・有馬記念を制したグリーングラスの父・インターメゾ号を母父に持つなど、長距離に強い血統の流れを汲む生粋のステイヤーであった(これは、かのサラブレッドクラブ・ラフィアンを創立した「マイネル軍団」の総帥こと岡田繁幸氏が生産牧場長と懇意であり、春天・菊花を勝てる馬を目指した事によるもの)。


生まれたばかりの頃は歩行が覚束なかったが、栗東トレーニングの調教師・伊藤修司に素質を見出されて競走馬としてのキャリアを歩み始めるとことなる。競市では当初は中々買い手がつかなかったが、ようやく2歳のときに生産元牧場の知人であった不動産経営者への落札が決定。しかし、そのときの落札額は810万円と安かった。

馬名は「今は小川(creek)でも、いつかは大河になってほしい」という願いを込め、「スーパークリーク」と付けられた。

(以下、「クリーク」と表記)


現役時代

デビュー~4歳時代

1987年(3歳)12月5日田原成貴騎手を鞍上にデビューし、新馬戦は2着で、2戦目の12月26日に初勝利を挙げる。

1988年(4歳)2月24日きさらぎ賞(GIII、南井克巳騎乗)が初重賞で、8頭立ての3着だった。

次のすみれ賞(オープン)で2勝目。このレースからは引退まで一貫して若武者・武豊が騎手となる。

クラシック戦線では日本ダービーを目指すも故障が発生して断念。


秋戦線は菊花賞(GI)を目指す。トライアルの神戸新聞杯(GII)は3着、続く京都新聞杯(GII)は6着に終わり優先出走権が得られず、賞金獲得同額のガクエンツービートと共に他馬の回避待ちとなった。クリークの素質に惚れ込んでいた武騎手は「どうしてもクリークで菊花賞に出たい」という姿勢を持っていたが、そこで奇跡が起きる。

実は出走可能馬の中に上述の岡田繁幸のラフィアンが所有するマイネルフリッセがいたのだが、岡田はクリークを見てマイネルフリッセの出走回避を決断(しかも当時重賞連発で初GIも狙える立場の中で、ラフィアン会員向けに会報で説得・謝罪した程だった。会員に関してはクリークが勝った事から相馬眼への賞賛が大半を占めて事なきを得たが、担当調教師の中村均は当然激怒し、8年後にマイネルマックスが活躍するまで絶縁状態になってしまった)。更にセンシュオーカンも回避したことで、運良くガクエンツービートと共に菊花賞に出ることが出来た。

ちなみに、後に武騎手はこのとき菊花賞にどの馬で行くか迷っており、最後に見たのがスーパークリークだったのだが、クリークが「どこへ行くんだ。もうほかに見る馬はいないんだろう。自分と一緒にいればいいじゃないか」と言わんばかりに袖をくわえて引っ張ってきた、と語っている。1992年にJRAが制作したポスターのスーパークリークのキャッチコピーは「逆指名」となっているのはこのエピソードが由来。


そしてレースは第4コーナーから先頭に立つとそのまま2着に5馬身差を付け逃げ切って勝利。武騎手はこれが初のGI勝利となり、以後の活躍は改めて言うまでもないだろう。ちなみに2着はクリークと回避待ちをしていた7番人気のガクエンツービートであった。


次は有馬記念に出走。このレースは出走馬は13頭ながら、オグリキャップ(以下「オグリ」)・タマモクロスサッカーボーイメジロデュレンなど役者が揃っており、また翌年1月7日に昭和天皇が崩御したことから、これが昭和最後のGIとなった。


レースはオグリ・タマモクロスに続く3着に入線するも、最後の直線で急に斜行し、メジロデュレンの進路妨害を行ったとして失格となってしまった。


古馬時代

古馬となった1989年(5歳)は、筋肉痛の影響で春戦線には出られず、秋戦線に出ることとなった。

復帰第1戦の京都大賞典(GII)を勝利すると、秋の天皇賞でオグリやイナリワン(以下「イナリ」)と対決。100回目の天皇賞という節目で平成三強が初めて揃い踏みとなった。


1989年 天皇賞・秋


レースはオグリとの接線になったが、競り合いを制してGI2勝目を飾る(イナリは6着)。


続くジャパンカップでは再び平成三強が揃って対決するも、勝ったのはニュージーランド産の馬ホーリックスで、オグリが2着、クリークが4着、イナリは11着に終わった。


年末の有馬記念でも平成三強が揃ったが、イナリに敗れて2着に終わった。オグリは5着だった。


最後のシーズンとなった1990年(6歳)は、大阪杯(当時はGII、2017年よりGI昇格)を勝利し、春の天皇賞ではイナリを抑えて勝利。


1990年 天皇賞・春


タマモクロス以来2頭目となる天皇賞春秋制覇を達成した(タマモクロスは春→秋で、クリークは秋→春の順である)。また、鞍上の武騎手にとっては、前年度にイナリに騎乗しての同レース初勝利に続く2連覇であり、翌年からはメジロマックイーンに騎乗して更に2年連続勝利、初勝利から4年連続勝利の大記録を達成した。


秋は京都大賞典に挑戦し2年連続で勝利するも、故障によってこれが最後のレースとなってしまい、1990年限りで引退した。


引退後

引退後は種牡馬となったが、目立った成績を残すことは出来なかった。


2010年7月3日にライバルのオグリが亡くなると、その後を追うかのように8月29日にクリークも25歳(旧26歳)で死去した。



関連タグ

競馬 競走馬 武豊

オグリキャップ イナリワン 平成三強


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