概要
ダイユウサクは1985年生まれの日本の競走馬。1991年の有馬記念にて、単勝137.9倍・14番人気からレースレコードを記録して優勝した。有馬記念における単勝万馬券は、現在に至るまで唯一の記録であり、「世紀の一発屋」として知られる。
しかしダイユウサク自身の生涯に目を向けると、幼い頃は身体も気も弱く、何とかデビューしても連続最下位で引退寸前。そこからコツコツと這い上がり、一世一代の激走でGⅠ馬入り、そして2013年に老衰で亡くなるまで28歳の天寿を全うした、逆転・逆襲の馬生を歩んだ馬である。
プロフィール
エンドマークに向けて
果断が笑顔につながり
自信は涙に流される
ふと舞い込む幸運
あるいは突然の失意
約束された未来など
どこにもない
シナリオは常に書き換えられ
予定調和は崩される
どんなエンディングでも
受け入れる準備はあるか?"
――名馬の肖像 2019年有馬記念より
生年月日 | 1985年6月12日 |
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死没 | 2013年12月8日(28歳没) |
英字表記 | Dai Yusaku |
性別 | 牡 |
毛色 | 鹿毛 |
父 | ノノアルコ |
母 | クニノキヨコ |
母の父 | ダイコーター |
5代内のインブリード | なし |
生産 | 優駿牧場(北海道門別町) |
調教師 | 内藤繁春(栗東) |
厩務員 | 平田修 |
主戦騎手 | 熊沢重文 |
競走成績 | 38戦11勝 |
獲得賞金 | 3億7682万4000円 |
主要勝鞍 | GⅠ:有馬記念('91)、GⅢ:スポニチ賞金杯('91) |
父ノノアルコはアメリカ産・フランス調教で、現役時は英2000ギニー、仏ジャック・ル・マロワ賞など10戦7勝。種牡馬生活の途中から日本へ輸入された。日本での産駒からはダイユウサクが唯一のGⅠ馬だが、欧州に残した牝馬ケイティーズはヒシアマゾンを産んだほか、その母系からはスリープレスナイト・アドマイヤムーン・エフフォーリアを輩出している。
母クニノキヨコ自身は9戦1勝の戦績だが、祖母クニノハナは1970年ビクトリアカップ(エリザベス女王杯の前身)優勝馬。
母父ダイコーターは1965年菊花賞の優勝馬である。
基本的にはマイル~2000mが中心だが、オープン入り後も1400mのスワンSから3200mの天皇賞(春)まで、距離を問わずどこでも出走していた。
※現役中の表記は旧馬齢表記(現在の表記より+1歳)を用いる。
戦歴
デビュー前
「クニノキヨコの1985」は、1985年6月12日、北海道門別町の優駿牧場にて期待の血統のもとに生まれた。しかし、6月12日という遅い生まれもあって同世代の馬たちと比べても成長が遅く、放牧では1頭だけぽつんとしているような、大人しく引っ込み思案の性格でもあった。
出生地の優駿牧場は栗東トレーニングセンター・内藤繁春調教師の肝煎りで設立された牧場。また内藤師はダイユウサクの祖母クニノハナ・母クニノキヨコを現役時代に管理していたこともあり、早くから内藤厩舎に入ることが内定していた。
しかし1987年に入厩した段階では、体質の弱さと競走馬としては大人しすぎる気性から、内藤師も半ば諦め気味だったという。
その上、本来は母父ダイコーターの名に、オーナーのお孫さんの名を引っかけて「ダイコウサク」と名付けられる予定だったのだが、「コ」の手書き文字を内藤師が読み違え、そのように当時内藤厩舎所属で後の主戦騎手の熊沢重文騎手がそのように書いたために「ダイユウサク」と登録されてしまった。
遅いデビューと引退危機
結局調教は遅れ、デビューにこぎ着けられたのは1988年(4歳)10月30日。一週間後には同期たちが菊花賞を戦うという時期である。ダイユウサクは400万下戦(京都競馬場ダ1800m)に出走したが、勝ち馬から13秒、ブービーの馬からも9秒離された最下位。完全なタイムオーバーであり、競走能力不足として一定期間の出走停止処分が下るところだったが、初出走のため当時の規定で処分は免れた。
11月の2戦目4歳未勝利戦(福島競馬場芝1800m)でも、勝ち馬から7.3秒、ブービーからも4.3秒遅れ、今度こそタイムオーバーによる出走停止処分が下った。
わずか2戦とはいえ、芝もダートも問題外の状態。障害競走への転向も体の弱さから危険であり、1勝どころか1円の賞金も稼げないのでは地方競馬への転籍もままならない。ダイユウサクは早くも引退の危機に立たされた。
競走馬がレースで稼いだ賞金の一部は担当厩務員にも還元されるため、1円も稼げないダイユウサクの世話を厩務員たちがやりたがらず、当時若手の平田修厩務員に担当が回ってきた。
だが、1ヶ月も世話をするうちに平田は「タイムオーバーを2度も食らうような馬じゃない」と感じるようになったという。ならばなぜ能力が発揮できないのか。平田はダイユウサクの状態を上向かせるため、熱心にケアを続けた。
(のちに平田はこうした厩務員・調教助手としての修行を経て、2006年に栗東で調教師として独立、カレンブラックヒルやゴールドドリームなどを手掛ける人物である。)
結局、体調が上向けばなんとかなるのでは、という内藤調教師の判断で、翌年も現役を続行できることになった。
紙一重の判断だったといえるだろう。この時だれも知る由のないことだが、4歳を終えた時点で未勝利・獲得賞金0円の馬が、のちに有馬記念を獲るのである。
1989年(旧5歳)
年が明けてもダイユウサクの体調は中々整わなかった。2月の小倉競馬場開催から始動する予定だったが直前に発熱し遠征を断念、春以降もソエ(骨が完全に成長しきっていない若い馬に多い前脚の炎症)を発しながら無理やり走っていた。
それでも、通算5戦目の4月16日400万下戦(新潟ダ1700m)で2番手追走からの抜け出しで初勝利。枠連31,640円の万馬券を作った。
調子は上向き、6月までに計3勝を挙げる。5月に2勝目を挙げたレースで、当時内藤厩舎所属の熊沢重文騎手が初騎乗し、以降主戦を務めるようになった。また当時新たに導入が進められていたプール調教を取り入れたことで、脚部の炎症も克服することができた。
7月に高松宮杯に格上挑戦し重賞初出走。メジロアルダンの7着に敗れたが、900万円下(現在の2勝クラス)で走る馬がGⅡに出走して14頭中の7着なので、健闘と言えるだろう。
結局この1989年は年間16戦を走り、5勝・2着4回・3着1回。1年前には引退待ったなしの虚弱馬だった存在が、よくここまで持ち直したものである。
1990年(旧6歳)
9月のムーンライトハンデキャップ(1500万下・中京芝2000m)に勝利し、念願のオープン入りを果たす。
そして次走の天皇賞(秋)でGⅠに初挑戦、同世代のオグリキャップと生涯唯一の対戦。結果はオグリ6着・ダイユウサク7着(勝ち馬はヤエノムテキ)。だが、2年前に未勝利戦でタイムオーバーを食らっていた馬が、オグリキャップとGⅠを走れるところまで這い上がったわけである。
賞金もこの年末の時点で1億4000万円以上を獲得し、立派に稼げるオープン馬に成長していた。
1991年(旧7歳)
7歳(現6歳)となった1991年は、年明けのスポニチ賞金杯(GⅢ、現:京都金杯)を1番人気で勝利し重賞初勝利。
次の産経大阪杯はホワイトストーンの2着に入るなど、この年は重賞戦線で善戦するも、掲示板(5着以内)に乗るのがやっとという状態だった。
11月のマイルチャンピオンシップ5着のあと、主戦騎手の熊沢と厩務員の平田は相談し、スプリンターズステークス(当時は12月開催)ならGⅠを狙えるかもしれないと内藤調教師に具申。内藤師はそれは無理だと却下したが、代わりに12月7日に開催されるこの年限りのオープン特別「阪神競馬場新装記念」(阪神芝1600m)に登録。「このレースに勝てば、推薦枠での有馬記念出走が可能かもしれない」との狙いだった。
すると、最重斤59kgを背負いつつも同レースに勝利。推薦委員会の議論の結果、滑り込みで有馬記念の推薦枠に選出された。
第36回有馬記念
そして、1991年末の第36回有馬記念。
大本命のメジロマックイーンが単勝1.7倍の圧倒的な1番人気に推された一方、対抗馬となるべきこの年の二冠馬トウカイテイオーは故障で不在。代わって、夏から秋にかけ重賞3勝を挙げ好調の4歳馬ナイスネイチャが2番人気(8.7倍)。その他、当年の天皇賞(秋)を(繰り上がりで)制したプレクラスニー、宝塚記念勝ち馬メジロライアン、マイル戦線の強豪ダイタクヘリオスなどが出走。こうした面々の中で、ダイユウサクは15頭立ての14番人気だった。
「ダイユウサクだ! ダイユウサクだ! これはびっくりダイユウサク! 熊沢です!」
結果は上記映像の通りである。ダイユウサクはプレクラスニーを最後の直線で抜き去ると、追い縋るメジロマックイーンを振り切り先頭でゴールイン。
なぜ勝てた?
ダイユウサクは1991年、年始から好調で、金杯(西)で重賞初制覇、産経大阪杯でも2着に入るも、その頑張りから調子を崩し、休養を経て復帰した秋は掲示板が精いっぱいだった。基本的にはマイル~2000mの馬であり、2500mを走るのはこの有馬が初である。しかも秋の京都大賞典(2400m)ではメジロマックイーンに10馬身以上の大差をつけられた5着(出走7頭)に惨敗していた。これでは有馬記念で人気を集めるわけはない。
ではその状況でなぜ、それまでの実績はわずかにGⅢ1勝・ブービー人気のダイユウサクが勝てたのか。
まず、単純にダイユウサクは絶好調だった。秋のイマイチな状態から調子を上げて有馬直前の阪神競馬場新装記念を快勝、内藤繁春調教師は「これまでにない仕上がり」と判を押していた。状態の良さから同師は「ユウサクは勝てる」と自信を持ち、レース当日の中山競馬場には表彰式に備え正装で乗り込んでいた(レース前後の映像や、きちんと正装で収まった口取り式の写真から確実である)。まさかダイユウサクが勝つなどとは思わない他陣営からは「おや内藤先生、めかしこんでどうされました?」等からかわれたが、レース後には言葉もなかったという。
レース展開も特殊だった。スタートからまず一か八かの大逃げを打ったのはツインターボ。1000m通過は59秒0と、レース距離と当時の馬場を考えればかなりの高速ペースである。
ターボ一頭が馬鹿逃げし、どうせ潰れるから放っておけと他は後方でじっくり控えていたならあまり影響はないのだが、その後方には秋天を(マックイーンの降着はあったものの)逃げ勝ったプレクラスニーと、掛かりながらもガンガン前に行く戦法が持ち味のダイタクヘリオスが2・3番手。引っ張られる形で全体のペースが上がっていた。ツインターボは早くも第3コーナーで逃げ潰れ始めたが、代わってプレクラスニー・ダイタクヘリオスが逃げ役に入れ替わり、ペースが緩まなかったことでレコード決着が生まれた。
この高速展開の中、好位抜け出しが必勝パターンのメジロマックイーンは道中で中団8番手付近と、位置取りを上げきれずにいた。それでも最後プレクラスニーとヘリオスを差し切ったのは流石だが、ダイユウサクはマックの上がり3ハロン(35秒6)を凌ぐ上がり最速の末脚(35秒3)を繰り出し、マックの一手先をいったのである。
熊沢重文騎手の好騎乗も光った。ダイユウサクは道中後方で息を潜め、後退していくツインターボを第4コーナーでかわすと、後方に垂れていくターボを馬群が外回りにかわしたことで生じていた内ラチ沿いのスペースにうまく入り込んだ。これで前方にはプレクラスニーとダイタクヘリオスのみ。熊沢は2頭の間のスペースにダイユウサクを導き、間を割って抜け出した。内を巧みに抜けたコース取りがなければ、マックイーンには先着できなかっただろう。
いろいろと要因は考えられるが、ともかくダイユウサクはそれまでGⅢ1勝の身から一挙にGⅠ、それもグランプリホースにのし上がる大金星。払い戻しは単勝13,790円の万馬券。有馬記念の単勝万馬券は現在に至るまでダイユウサク以外に例がない。
しかも、2年前にイナリワンが記録したレコードタイムを1秒も更新する2分30秒6のレースレコード(同時に、中山競馬場芝2500mのコースレコード)を打ち立て、このレコードは2003年にシンボリクリスエスが0.1秒破るまで保持された。平成を経て令和になっても、有馬記念の決着がダイユウサクの1991年走破タイムを下回ることは普通にあり、時計的にも文句なしの大勝利である。
1992年(旧8歳)
ダイユウサクはその後、8歳(現7歳)となった1992年も現役を続けた。
注目度の高まったこの年も結果を残していれば、後世の評価ももう少し変わったのかもしれないが、有馬で燃え尽きてしまったのか、前年までの稼ぎっぷりが幻のように走れなくなってしまう。以降は掲示板にすら乗ることもなく、スワンステークス15着を最後に引退した。
それでも、通算戦績38戦11勝・獲得賞金約3億7000万円。後世「世紀の一発屋」と呼ばれるものの、デビュー戦でタイムオーバーを喫した虚弱な馬は、成長を重ねGⅠホースとなって現役を退いたのである。
引退後
現役引退後は種牡馬となるも、相手が集まらず産駒成績は振るわなかった。
1998年に種牡馬を引退。同年、浦河町にて名馬と触れ合える宿泊施設「うらかわ優駿ビレッジAERU」の開業記念に知名度のある馬をと招かれ、以降は同施設付属の牧場で功労馬として過ごした。後にやってきたニッポーテイオーやウイニングチケットらと親しくなって穏やかな日々を送り、2013年12月8日に老衰のため28歳で死去した。
余談
- 有馬記念の一週間前、内藤繁春調教師は夢を見たという。その内容は「5枠からスタートしたダイユウサクが有馬記念を優勝。そして内藤の手元にはダイユウサクの馬券がたんまりあり(調教師に馬券購入は許されていないが、あくまで夢の中の話である)、払い戻しの際に『現金ですか?小切手にしますか?』と尋ねられ、『億の現金は見たことがない。せっかくだから現金で』と答え、馬運車にダイユウサクと大量の札束を乗せ、意気揚々と栗東に帰っていく」……というものだったらしい。内藤師は吉夢だと喜び「ダイユウサクが5枠を引いたら買えよ、外れても俺が弁済してやる」と周囲に話していた。すると直前の枠順抽選会でダイユウサクは5枠8番を引き当てた。内藤師は自信を深め、当日は表彰式に備えて正装で中山競馬場へ乗り込んだ。
- オーナーは有馬記念当日、まさかダイユウサクが勝つとは思わず名古屋で取引先との忘年会に出席していた。レースの時間、勝てはしまいが見るくらいは…とロビーのテレビで観戦すると、何と自分の勝負服の馬が先頭でゴールしたではないか。呆気にとられている祖父に3人の孫たちがやったやったと抱き着き、その中には馬名の由来になるはずだった幸作少年もいた。
- 栗東の内藤厩舎所属の若手だった主戦の熊沢重文騎手は、当時関西での騎乗がメインだったため、有馬記念のために中山開催に向かった際道に迷ったという。実は熊沢騎手、1988年のオークスを10番人気のコスモドリームで制覇して穴馬券を生み出した時も府中へ行く途中で道に迷っていた。コスモドリーム、ダイユウサクとも「低人気だったし気楽に思い切って乗れた」と熊沢は振り返っている。有馬記念優勝の夜、熊沢は平田厩務員と祝杯をあげようと馬房を訪れたが見つからず、平田が戻った時には馬房の前に「先にダイユウサクと乾杯しました。新幹線の時間があるのでお先に帰ります」と、缶ビールに添えて書き置きが残されていたという。なお、熊沢がダイユウサクの次にGⅠを勝つのは2005年の阪神ジュベナイルフィリーズ・テイエムプリキュア。8番人気からの勝利で、やはり馬連万馬券と穴を開けている。
- 苦楽を共にした平田修厩務員は、有馬記念のレース中興奮のあまり厩務員たちが待機するバスの中で天井を殴りつけてしまい、レース後は右手を腫らしながら引き綱を持ってダイユウサクに駆け寄った。後年、調教師として独立開業し、カレンブラックヒルやゴールドドリームらGⅠ馬を手掛けるまでになった契機はダイユウサクにあるといい、「ダイユウサクを担当した何年か、物事に熱中して一生懸命やっていたことを青春というのであれば、あれが青春でした」と語っている。
- 2023年に熊沢騎手が引退する際の引退式には熊沢騎手はダイユウサクの勝負服を着用し、名前の由来となった橋元幸作氏が花束を渡している。
関連タグ
- トルカータータッソ……ドイツ出身の競走馬で、2021年の凱旋門賞優勝馬。このレースではブービー人気(14頭中13番人気)ながら2番人気のアイルランド馬タルナワ、1番人気のイギリス馬ハリケーンレーンとの壮絶な競り合いの末に勝利したのだが、ブービー人気が1着、1番人気と2番人気がそれぞれ2着と3着に入線した辺りが有馬記念の時のダイユウサクと見事に一致している(有馬記念の場合は1着ダイユウサクはブービーの14番人気、2着メジロマックイーンは1番人気、3着ナイスネイチャは2番人気。因みにナイスネイチャは此処から3年連続で有馬記念3着に入線する事になる)。また、スペルミス(誤字)がそのまま馬名に使われてしまったという共通項もある。
- ハーツクライ……2005年の有馬記念で無敗三冠馬ディープインパクトに勝利した馬。それまで勝ちきれないレースが続いていたため「ダイユウサクみたいなもん」という評価もあった(ただし前走のジャパンカップは2着ながらレコードで、それ以前も善戦していた)が、産駒成績も含めて一発屋では終わらなかった。