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概要
菊花賞(1988年)での惨敗後は中距離・マイルのレースに専念した。
主な勝ち鞍は皐月賞(1988年)、天皇賞(秋)(1990年)など。
1990年度最優秀父内国産馬。
平成三強をはじめ、同期が強豪揃いで勝ちきれないレースが多かったが、大きな故障もなく現役を全うした。
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ヒーロー列伝
東京の
二千に咲いた
ムテキの舞い
「ヒーロー列伝」No.31
名馬の肖像
輝きと熱さと
拮抗する星々
せめぎあう魂たち
小さな油断と躊躇が
たちまち劣勢を招く
己のなかにある
輝きを絶やすな
熱さを静めるな
それらは周囲を撃破し
勝ち抜くための
無敵の力となるものだから
「名馬の肖像 2021年」天皇賞(秋)より
プロフィール
略歴
1985年
4月11日、北海道浦河町の宮村牧場で生まれた。
父・ヤマニンスキーは条件馬どまりだったが、マルゼンスキーと同じ血統構成を持っていた。
母・ツルミスターは3戦未勝利だったが良血で、荻野光男調教師が馬主を説得して繁殖牝馬となった。
栗毛で四白流星の大柄で美しい仔馬だったが、気性が荒くケンカばかりしており、牝馬を見れば後をつけ回した。他馬をいじめるので放牧の時は隔離されていた。
1986年
大静牧場(三重県)で育成された。荻野師の薦めで有限会社富士の大池正夫社長が1300万円で購入し馬主となり、「ヤエノムテキ」と名付けられる。
1987年
栗東の荻野光男厩舎に入厩。腰が弱く、デビューは遅れた。
1988年
2月27日、西浦勝一騎手を鞍上に阪神競馬場の新馬戦(ダート1700m)でデビュー。2着に7馬身差の圧勝だった。
3月19日、沈丁花賞(400万下)に出走し2着に12馬身差の圧勝。落ちこぼれから一転してクラシック戦線での活躍に期待されるようになる。
3月27日、初めての芝レースとなる毎日杯(GⅢ)に出走。皐月賞(GⅠ)出走には賞金が足りず、それを稼ぐため連闘となった。オグリキャップの4着に敗れ賞金の上乗せに失敗した。しかし、最有力馬のサッカーボーイが飛節炎で回避など出走取消が相次ぎ、ヤエノムテキも抽選で出走できる事になった。
4月17日、皐月賞に出走し1着。重賞初勝利となる。
5月29日、東京優駿(GⅠ)に出走しサクラチヨノオーの4着に敗れた。最終直線ではサクラチヨノオー、メジロアルダン、コクサイトリプルの激しい攻防が続いたがヤエノムテキはついて行けなかった。
7月3日、中日スポーツ賞4歳ステークス(GⅢ)に出走しサッカーボーイの2着に敗れた。秋競馬へ向けて休養に入る。
10月16日、菊花賞トライアルの京都新聞杯(GⅡ)に出走し1着。
11月6日、菊花賞(GⅠ)に出走しスーパークリークの10着に敗れた。最終直線で伸びず、距離の限界が露呈した。
12月4日、鳴尾記念(GⅡ)に出走し1着。
1989年
1月22日、日経新春杯(GⅡ)に出走しランドヒリュウの2着に敗れた。距離の長い天皇賞(春)は回避する事になり、日程に余裕ができたので2ヶ月休養。
4月2日、産経大阪杯(GⅡ)に出走し1着。
6月11日、宝塚記念(GⅠ)に出走。終始気力に欠け、イナリワンの7着に敗れた。秋競馬へ向け休養に入り、笹針治療が行われた。秋は毎日王冠(GⅡ)を叩いてから天皇賞(秋)(GⅠ)の予定だったが、函館の温泉で緩み過ぎてしまい、天皇賞へ直行となった。
10月2日、天皇賞(秋)に出走しスーパークリークの4着に敗れた。
12月24日、有馬記念(GⅠ)に出走しイナリワンの6着に敗れた。
1990年
1月21日、日経新春杯に出走しトーワトリプルの2着に敗れた。
2月25日、マイラーズカップ(GⅡ)に出走しメジロワースの3着に敗れた。
4月3日、産経大阪杯に出走しスーパークリークの3着に敗れた。
5月13日、岡部幸雄騎手に乗り替わり安田記念(GⅠ)に出走。半年ぶりに復帰したオグリキャップを終始マークしたが、レコード勝ちしたオグリキャップの2着に敗れた。
6月10日、宝塚記念に出走。オグリキャップを終始マークしたが、1着は思い切った先行策を採ったオサイチジョージで、3着に敗れた。昨年の反省から夏は強い調教を積み、ぶっつけで天皇賞に出走する事となった。
10月28日、天皇賞(秋)に出走。速いペースの中、内に控え、早めに抜け出して後続を突き放した。追い込んできたメジロアルダンと並んでゴールしたが、アタマ差で1着。
11月25日、ジャパンカップ(GⅠ)に出走。有力外国馬たちの叩き合いについて行けず、ベタールースンアップの6着に敗れた。
12月23日、引退レースの有馬記念に出走。本馬場入場直後、同じく引退レースであったオグリキャップの入場で起きた大歓声に驚き、岡部騎手を振り落として放馬するハプニングがあった。ゲートにも中々入らず「枠入り不良」となる。好スタートを切り2番手を追走したが、オグリキャップの7着に敗れた。ヤエノムテキは気性難のため、不慮の事故を懸念して引退式は行わなかった。
1991年
1月、1990年度の最優秀父内国産馬に選出された。
総額5億円のシンジケートが組まれ、新冠町農協畜産センターで種牡馬として供用されたが、産駒は全く活躍しなかった。
1997年
高額シンジケートは解散となり、新たに安いシンジケートが組まれ、日高スタリオンステーションで種牡馬として供用されたが、産駒は全く活躍しなかった。
2001年
安いシンジケートも解散。
2003年
種付け数は0となったが、ファンの支援により種牡馬登録は存続。
2010年
種牡馬を引退。日高スタリオンステーションで功労馬として余生を過ごす。
2014年
3月28日、腸閉塞により死去(29歳)。
余談
- 4歳の頃、牝馬のシヨノロマンに惚れ、調教の時はシヨノロマンが現れるのを待ち中々走り出さなかったが、シヨノロマンからは全く相手にされなかった。
- バンブーメモリーやサッカーボーイと外見が似ていたが、サッカーボーイよりはかなり大きかった。
- ゲートを嫌い、枠入り不良で何度も調教再審査になった。