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来歴

1931年1月12日生まれ。愛知県出身。実家は養鶏場を営んでいた。

戦後は定時制高校に通いながら工場で働いていたが、煤煙で肺を病んだことで休職。休養中に公営岡崎競馬場を訪れたことをきっかけに騎手を志し、兄の知人を通じて公営名古屋の光岡直三郎を紹介され、そこで国営(中央)の騎手になることを勧められ、今度は京都武田文吾を紹介される。しかし武田師は半年前に見習いを1人受け入れたばかりのために武田一門への入門は叶わなかったが、中山・鈴木信太郎厩舎を紹介され、そちらへ入門。1952年に騎手デビューを果たした。


しかし騎乗機会がなかなか得られず、1954年に小倉・千倉政雄厩舎へと移籍。1955年2月に初勝利を挙げ、55年は9勝するも翌年2月の障害競走中に騎乗馬が転倒。その下敷きになったことで足首を骨折。8ヶ月の休養を経て京都の久保道雄厩舎へと移籍する。ここから勝利数を伸ばし始め、1958年に日迫清厩舎に移籍して同厩舎の主戦騎手となった。


1959年には武田文吾らの師匠である鈴木甚吉の次女と結婚。翌年には義兄の鈴木和雄厩舎が管理馬不足から廃業の危機に陥り、立て直しを手伝うために鈴木厩舎へ移籍。各所から馬を集め、名古屋で寿司店を開業して成功を収めていた実兄にも馬主資格取得と預託を依頼し、厩舎の立て直しに成功。1965年にはハヤコマと共に春のタマツバキ記念を制したことで重賞2勝目を挙げ、他厩舎からの騎乗依頼もこなすことで勝利数を積み重ねていくが、1968年に義兄が急死。厩舎解散を防ぐために調教師への転向を決め、騎手を引退した。


調教師としてはビクトリアカップの初代女王となったクニノハナ、「これはビックリ、ダイユウサク!」の実況で有名なダイユウサク、96年スプリンターズステークスでフラワーパークと1cm差の接戦を繰り広げたエイシンワシントンなどを管理した。


調教師の定年を翌年に控えた2000年10月に騎手免許受験を発表。JRAも受験を容認する姿勢を見せるが、学科・実技双方で厳しい内容となり結果は不合格。もし合格していたら中央で最初に調教師→騎手への転向を実現することになっていた。


2001年2月に調教師を引退。引退後は公営・園田で馬主資格を取得。2013年8月12日に82歳で死去。

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