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概要編集

JRA所属の元騎手、元調教師

職人気質で頑固、勝気な性格で、自分にも、他者にも厳しかった。

騎手時代は「仕事人」「マーク屋」「刺客」「ヒットマン」「人気馬キラー」などと呼ばれた。

騎手引退後は調教師として栗東トレーニングセンター厩舎を構え、重賞勝利6勝を挙げた。


田原成貴元騎手の兄弟子。川島信二騎手は娘婿。

小島太とは養成所時代からの親友で、小島の次男の良太の名は田島の「保」と小島の「」から採られている。


来歴編集

1947年

10月17日、鹿児島県牧園町(現在は霧島市)に誕生。


1963年

中学校を卒業して馬事公苑第14期騎手養成長期課程に入所。同期には小島太、安田富男目野哲也平井雄二池上昌弘などアクの強い面々が揃っており、1つ下でスター騎手揃いの第15期生が「花の15期生」と呼ばれたのに対し、第14期生は「ずっこけ14期生」と自称していた。


騎手時代編集

1966年

養成所を卒業し、谷八郎厩舎(京都競馬場)所属となる。

3月5日、中京競馬場でデビュー。

初年度に23勝を挙げ、関西新人賞を受賞。


1971年

5月2日、サラ系ヒカルイマイ皐月賞に勝ち、八大競走初勝利。

6月13日、東京優駿もヒカルイマイで勝って23歳でダービージョッキーとなる(戦後最年少)。


1973年

6月3日、宝塚記念で4番人気のハマノパレードに騎乗し、タイテエムを破りレコード勝ち。後に自身の騎乗馬で最強はハマノパレードと語っている。

10月21日、京都新聞杯で9番人気のトーヨーチカラに騎乗し、2強(ハイセイコータケホープ)を破り1着。


1980年

11月9日、菊花賞で5番人気のノースガストに騎乗し、モンテプリンスを破りレコード勝ち。戦後生まれの騎手として初めてクラシック三冠を制した。「必殺仕事人」の仇名が定着。


1983年

自己最高となる年間60勝を挙げる。


1986年

11月16日、マイルチャンピオンシップで6番人気のタカラスチールに騎乗し、ニッポーテイオーを破り1着。


1989年

5月21日、優駿牝馬で10番人気のライトカラーに騎乗し、シャダイカグラを破り1着。GⅠ勝利を7勝とする。


1992年

体力の限界から騎手引退を表明。

2月23日、京都競馬場5歳以上900万下でのアポロシーザーが最後の騎乗となった。


調教師時代編集

1993年

調教師となり、栗東トレーニングセンターに厩舎を構えた。

3月14日、阪神競馬場・第3競走出走のアイノクレールで調教師として初勝利を挙げる。


1995年

8月13日、管理馬スプリングバンブー小倉記念で1着。調教師として重賞初勝利。


2001年

4月1日、管理馬トーホウドリーム産経大阪杯(現在の大阪杯)で1着。テイエムオペラオーの連勝を阻む。


2006年

2002年のきさらぎ賞を制した管理馬メジロマイヤーが、小倉大賞典で約4年ぶりの重賞勝利。当時のJRAにおける重賞最長間隔勝利記録となった。

しかしこの小倉大賞典で騎乗する川田将雅に「メジロ牧場」ではなく「メジロ商事」の勝負服を着せてしまうミスを犯す。発覚したのがレース翌週だったので制裁はなかった。


2003年

1月19日、管理馬バンブーユベントス(スプリングバンブー産駒)が日経新春杯で1着。


2013年

9月20日、調教師を勇退。


関連タグ編集

JRA 騎手 調教師

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