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ケイエスミラクル

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けいえすみらくる

アメリカ合衆国生産・日本調教の競走馬(1988-1991)。主な勝鞍は1991年スワンステークス(GⅡ)。

概要

ケイエスミラクルは1988年生まれの日本の競走馬。

生まれつき患った日本脳炎と、脚部故障の二度の苦難を乗り越えてデビューに漕ぎ着けたことから「奇跡=ミラクル」と名付けられた。

短距離戦線でデビューするとその年の間に3度のレコード勝ちを記録し、あっという間にGⅠ戦線までのし上がったが、デビューからわずか8ヶ月の1991年スプリンターズステークス中に故障し、予後不良となった。

プロフィール

生年月日1988年3月16日
死没1991年12月15日(旧4歳没)
欧字表記K.S.Miracle
性別
毛色鹿毛
Stutz Blackhawk(USA)
レディベンドフェイジャー
母の父Never Bend(USA)
生産Tsukao Farm(アメリカ合衆国ケンタッキー州
調教師高橋成忠(栗東)
主戦騎手佐伯清久 → 南井克巳
競走成績10戦5勝
獲得賞金1億3422万6000円
主要勝鞍GⅡスワンステークス(1991年)

アメリカ合衆国生産・日本調教の外国産馬。

父・スタッツブラックホークは現役時40戦3勝で重賞勝鞍なし。大種牡馬ミスタープロスペクター産駒として種牡馬入りしたが、日本でデビューした産駒はたった一頭このケイエスミラクルのみであり、かつケイエスミラクルが最大の活躍産駒である(他にはアメリカでG3を1勝の産駒がいるのみ)。

母・レディベンドフェイジャーは従弟にクラフティプロスペクター(アグネスデジタルの父)がおり、後に日本に輸入されて繁殖牝馬を続けた。

母父ネヴァーベンドは大種牡馬ナスルーラ後継種牡馬の一角として活躍。ミルリーフやブレイヴェストローマンなどを輩出した。

※本記事の表記は旧馬齢表記(現在の表記より+1歳)を用いる。

戦歴

二度の奇跡

アメリカ生まれの本馬は、父に競走馬・種牡馬として実績がない地味な血統であることは否めず、購買価格は3万ドル(当時のレートで約400万円)という安さであった。

さらに生まれつき日本脳炎を患っていることが分かったが、3歳(現2歳)を費やして治療に努めた結果これを克服。

ようやく調教が進みつつあったところ今度は脚部故障に見舞われるが、これも回復させデビューに漕ぎ着けた。

二度の「奇跡」を起こした本馬には、冠名に続けて「ケイエスミラクル」の名が与えられた。

深刻な危機を乗り越えた本馬は、遅いデビューから一気にのし上がり、その短い競走生活の中で素晴らしいスピードをターフで発揮することとなる。

1991年(旧4歳)

1991年4月、佐伯清久の騎乗でデビュー。デビュー戦は2着も、2戦目を新潟競馬場芝1400mの短距離戦にもかかわらず8馬身ぶっちぎって初勝利。

6月、南井克巳に鞍上が交替した4戦目・500万下石狩特別(札幌競馬場芝1200m)では、これも4馬身差をつけレコード勝ち。

中一週で臨んだ900万円下藻岩山特別(札幌芝1200m)では、それまでの余りに能力の違う勝ちっぷりから条件戦にもかかわらず単枠指定(当時存在した、圧倒的な1番人気が確実な馬を事前にひと枠1頭に分ける制度)という異例の措置が取られた。するとこれも9馬身ぶっちぎって(重ねて言うが1200m戦である)大勝。「とてつもない馬が現れたぞ」と話題となった。

夏の休養を挟み、9月8日のセントウルステークス(GⅢ、現在はGⅡ)。これが重賞初出走にもかかわらず3番人気に推されたが、14頭中13着のブービーと惨敗。

しかし、10月5日のオパールステークス(OP、京都芝1200m)で自身2度目のレコード勝ちを飾り、すぐさま立て直した。

スワンステークス

2度目の重賞挑戦は10月26日のスワンステークス(GⅡ)。

1番人気はこの年の安田記念ダイイチルビー。さらに前年のスプリンターズステークスバンブーメモリー高松宮杯を制して臨むダイタクヘリオスらが名を連ねる中、ケイエスミラクルは5番人気。

ダイタクヘリオスがハナを切る中、ケイエスミラクルは6番手付近を確保。直線、ダイユウサクがヘリオスを捉えて先頭に立つかという時、2頭の間を割って抜け出したケイエスミラクル。ダイイチルビーの追撃をクビ差しのぎ、重賞初制覇。

勝ち時計1分20秒6は、当時の芝1400m日本レコードであった。

1400mのスワンステークスをレコード勝ちしたことから距離延長に挑戦し、11月17日のマイルチャンピオンシップに挑むが、ここはハナを切って押し切りGⅠ初制覇を挙げるダイタクヘリオスを捕まえきれず、3着。

スプリンターズステークス

元々デビュー前に脚部不安のあったことから、マイルCS限りで1991年を終えるプランもあったようだが、本来の距離ではない中でも3着と好走したことから、初GⅠを狙って12月15日のスプリンターズステークスに出走(当時は有馬記念の前週開催)。得意の短距離に戻ったこともあり、単勝2.2倍の1番人気に推されていた。

岡部幸雄騎乗のケイエスミラクルは前半を中団に控えたのち、直線で外からぐんぐん伸び、先頭へ取り付こうかという時、突如脚を故障し失速。競走中止となった。

(以下、0:58~に故障状況の映像が流れるため注意)

診断は、左第一趾骨粉砕骨折。その場で予後不良の判断が下され、安楽死の措置が取られた。

二度の苦難を乗り越え「奇跡」の名を受けてデビューし、わずか8ヶ月の間に日本レコードを含む3度のレコード勝ちを記録した快速馬は、こうして短い生涯を終えたのである。

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