概要
1930年代、アメリカの航空機メーカーのダグラス社では、成功を収めた双発旅客機DC-3の更なる発展型となる4発旅客機開発を行った。
1942年2月、完成した新型旅客機・DC-4は折からの第二次世界大戦の影響で、アメリカ軍にC-54スカイマスター(陸軍向け)およびR5D(海軍向け)として採用され活躍した。
戦後軍から払い下げられた機体が民間の航空会社へ転用され、後継となるDC-6やDC-7が出回る1950年代末まで大手航空会社で活躍した。
その一方で純民間機型も74機作られてはいるが、先述のDC-6の生産等の絡みで1947年8月に製造を打ち切ってしまった。
1960年代以降も中小の航空会社において、主に貨物機として活躍した。
DC-4E
1938年6月に初飛行したDC-4の試作機で末尾のEはExperimental=試作機を意味する。
操縦性能には問題なかったものの、機体構造が複雑すぎコストがかかるという大きい壁にぶちあたることになった。
結局機体設計を一からやり直すこととなり、完成していた機体は1939年10月に大日本帝国海軍が購入し、新型陸上攻撃機の参考資料とした。これをもとに開発されたのが一三試陸上攻撃機「深山」であった。
日本航空創生期の主力機として
1951年に日本航空(日航)が設立された際、航空機の運航をノースウエスト航空に任せざるをえなくなったのだが、その際、5機あったマーチン2-0-2の予備機として1機のDC-4が紛れ込んでいた。そのDC-4に対し「てんおう星」号と名付けたのだが、これはマーチン2-0-2に太陽系惑星の名称を与えたのに合わせたからであった。
だが、マーチン2-0-2は事故が多発しており信頼性が疑われた(実際日航が使用していた「もく星」号が1952年4月9日に伊豆大島・三原山で墜落)のに対し、アメリカや西ヨーロッパ諸国での軍民両方での使用実績から来る信頼性の高さもあり、1952年10月25日から自社で運航できるようになった際にノースウエスト航空から「てんおう星」号を譲ってもらった上で、さらに(元C-54を含めた)中古機を同年中までに5機購入、そしてこれらのDC-4を路線に就航させた。その後1954年から1958年にかけて合わせて5機追加購入、通算11機導入した。
機体には日本の主な山岳の名称(例えば「白馬」号、「阿蘇」号、「天城」号。ちなみに「てんおう星」号は「十勝」号と改名)がつけられている。
余談ながら日航に残されている資料写真の中には、パンアメリカン航空のボーイング377と英国海外航空のデ・ハビランドコメットに挟まれる格好の「十勝」号の写真が残されており、当時の世界2大航空会社に睨みをきかせようとする日航の様子が見て取れるものとなっている。
かくして創生期の日航の主力機として国内線で大活躍したものの、レーダーがなく、機内の圧力もコントロール(いわゆる与圧)できなかったため、飛ばせる高度が低いため悪天候による欠航が続出、しかも全日空が1959年に与圧装置のあるコンベア440旅客機を導入して対抗したため、格安の夜行便サービスを導入しようとするも、競合他社を保護するため運輸省に止められてしまう。
結局国際線へのジェット機・DC-8投入で余ったDC-6(こちらは与圧装置がある)を国内線に投入することになったため、1963年4月1日に全機退役した。