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ソビエト連邦のツポレフ設計局で開発された大型旅客機

戦略爆撃機 Tu-95を基に胴体等の再設計を行い誕生した。初飛行は1957年。運航開始は1961年から。

当初はソビエト政府要人の輸送に当てられていたが、後に一般の旅客機として量産された。

戦略爆撃機譲りの長い航続距離を活かして、長距離国内路線や国際路線に就航した。


ターボフロップ式の2重反転プロペラを採用し、プロペラ機ながらも当時のジェット機と遜色のない飛行性能を誇った。

機体のサイズは当時としては非常に大きく、後にダグラス DC-8-61が登場するまでは、最も座席数が多い機体だった。

機種先端はガラス張りで、航法士が乗り込んで天測航法や現在位置の確認を行う。

航法支援装置がアレな地域を飛ぶときなどに「やはり最後に信じられるのは己の目だけ」と言うことだろう。


ただ、その大きな機体は世界各地の民間空港では誘導路や滑走路での機体の取り回しなどに難が出るほどで、就航はごく大規模な空港に限られた。

また、Tu-114はTu-95と違って主翼が胴体下側に付いていて、巨大なプロペラが主翼と同じ高さに付くレイアウトである。このため、滑走路と主翼の間はスペースを大きく取らなければならず、機体の主脚は非常に長くなった。

このため、滑走路から機体のドアまでの高さが凄まじく高くなりTu-114を受け入れる空港では専用のタラップを準備する必要があった。

結局、Tu-114の生産数は僅かに31機と極めて振るわなかった。

これは、当時の旅客機としては大きすぎた事や、旅客機としては他に例のないターボフロップ式2重反転プロペラなどが敬遠されたとされている。


プロペラ機としては勿論のこと、同じ時期の他のジェット旅客機と比較しても突出した性能を誇っていたものの、機体の金属疲労の蓄積が早かったため1975年には全機が退役した。


日本では、フラッグシップキャリアの日本航空とソ連のアエロフロートとの共同運行で東京モスクワ間で運行された。

当初、日本側もDC-8を使用してモスクワに乗り入れる予定だったが、ソ連側が難色を示したという。

東京ーモスクワ便に使われる機体には日航の鶴丸マークが描かれた。

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