概要
1952年にソ連で開発され、1956年にソ連軍に配備された、ターボプロップ・エンジン4発の大型爆撃機。航続距離が長く、海上哨戒機や巡航ミサイル発射母機も派生した。海軍型はTu-142。NATOコードネームは『ベア』。
細長い胴体、長い後退翼、巨大な二重反転プロペラが特徴。
当時の世界情勢
1950年代、第二次世界大戦が終結して、アメリカ・ソビエトの二大国家が見せた最初の動きは『互いに自国を攻撃しないか警戒する』というものだった。アメリカはナチスドイツの科学力と世界トップの工業力と合わさり、共産主義が資本主義を脅かす事を警戒していた。ソビエトはもとよりアメリカなど信用しておらず、倒すべき資本主義国家の総本山であり、いつでも本土空襲を敢行できる空軍力と核兵器の脅威について警戒していた。
だが、両陣営が直接激突することはなかった。
戦後しばらくは両国とも戦後復興に忙しかったし、なによりお互い性質こそ違うものの強大な軍隊である。直接ぶつかり合うと再び長く苦しい戦争になって共倒れになるのは確実なので、ひとまず今は同盟国を増やし、自国の勢力を伸ばすことに注力したのだった。
当時のソビエト爆撃機
それまでソビエトが開発した大型爆撃機はツポレフTB-3やペトリャコフPe-8くらいのもので、戦時中は双発中型爆撃機の開発がせいぜいであった。
しかし、アメリカが相手では、手持ちの爆撃機はまったく役に立たない。
『アメリカはモスクワに核爆弾を落とせるのに、こっちは何も出来ない!』
さいわい、九州や満州を爆撃したB-29のうち3機が、故障などによりソ連領内に不時着したため、日ソ不可侵条約を盾に没収しデッドコピーする事が出来た(乗員は中立国経由で帰国)。
こうして完成したのがツポレフTu-4「ブル」だったが、1950年に朝鮮戦争が勃発。B-29がソ連のジェット戦闘機MiG-15相手に惨敗したため、Tu-4も時代遅れとなってしまった。
1948年にはイリューシンIl-28「ビーグル」のような新型機が完成していたが、アメリカ本土に到達し、迎撃網をくぐり抜けてワシントンを爆撃する事など不可能だった。
なんとしても新しい爆撃機を開発しなければならない。それも迎撃戦闘機に対抗できる高性能機を。
『大陸間爆撃機』はアメリカも血眼になって開発していた機種であり、こうした開発競争も冷戦の一局面であった。
ソビエト流『空の要塞』
B-29で得られたノウハウに新たな技術を加えた爆撃機は、朝鮮戦争中に完成にこぎつけた。
最初に完成したのはツポレフTu-16「バジャー」で、大型のジェットエンジンを主翼付け根に左右1基ずつ搭載している。Il-28を大きく上回る高性能機だったが、大陸間爆撃機というには航続距離が短かすぎた。当時のジェットエンジンにはターボジェットしかなく、燃料消費が大きかった。
そのため、次なる爆撃機にはターボプロップエンジンを使用する事になった。排気でタービンを回してコンプレッサーを駆動し、吸気・圧縮した空気で燃料を燃やす点はターボジェットと変わりないが、排気タービンの回転を減速機を介してプロペラを回す動力としている。
コンプレッサー駆動用とプロペラ駆動用のタービン軸が別々ならば、コンプレッサー駆動用タービンの速度に影響されることなく最適な回転数でプロペラを回転させることが可能である。
最適飛行高度や最大速度はターボジェットに劣るが、軽量で燃費が良いのが特徴である。
さらには、巨大な二重反転プロペラが導入されている。
プロペラ推進には『プロペラ先端速度が音速を超えると、かき出すべき空気がプロペラ先端部に集中してしまい、後ろにかき出す空気が少なくなってしまう』という弱点がある。
軸出力10,000馬力以上のパワーを通常のプロペラで受け止めれば、先端速度が音速を超えないために必要なプロペラ径は10メートルを超す。製造に手間がかかり、地面への接触を防ぐため極端に長い主脚も必要になる。
このため二重反転プロペラとして直径を5.59mに抑えつつ、回転を低速化する手法を採った。それでも主脚は長い。
航続距離は試作機Tu-95-2で13000km、生産型Tu-95Mで16000kmに達する。最大速度も900km/hを超え、後退翼が採用されており、プロペラ機としては現在もなお世界最速である。
「ベア」の活躍
核爆弾から巡航ミサイルへ
Tu-95は1955年のパレードで初登場し、参列した西側の関係者に衝撃を与えることになった。
CIAなどは過大評価して、「ソビエトの戦略爆撃機の勢力はアメリカ以上である」と見積もったりもした。いわゆる「ボマーギャップ」というやつである。
U-2のソ連強行偵察はこれを裏付けるために行われていた。
時を同じくして、さすがに「敵の勢力下へ鈍重な爆撃機でノコノコ向かうのは危険が大きい。対空ミサイルが作れるのなら対地ミサイルも作れるはずだ。敵地に入る前に対地ミサイルを発射できるのではないか」という考えも出てきた。
こうしてTu-95は配備から間もなく、巡航ミサイルの発射母機として使うことが考えられた。こうして登場したのがTu-95Kで、Kh-20巡航ミサイルを搭載することができた。
敵の本土とはもちろん『防備のいちばん強固な場所』となる。ここを直接空襲するということは、当然損害も多く見積もっておく必要がある。そして当時のアメリカ防空体制もまた強固であり、撃墜される機を計算に入れると多数の爆撃機を同時に飛ばす必要がある。
多数の高価な爆撃機を揃え、乗員も時間と費用をかけて訓練し、さらに高価な核兵器を全機に搭載する、その総費用はソ連軍でさえ我慢ならない数字となってしまった。
結論として、『本土狙いは割に合わない』。それよりも一隻で一国の空軍にも相当する戦力をもち、世界中に神出鬼没の空母を沈めることができれば、戦力を一気にそぎ落とせると考えたのだった。
海軍のミサイル誘導機
Tu-95の優れた性能には海軍も関心をよせた。
当時の対艦ミサイルは現在に比べると未熟なもので、誘導にGPSもなければ光学システムを使った地形照合も使えなかった。ならどうするかというと、レーダーで敵を探知し、無線で誘導波を出してミサイルを誘導する必要があった。
こうして開発されたのがTu-95RTsで、潜水艦やその他水上艦艇のミサイルを誘導するため、もしくは電子偵察のために生産されている。
海軍の対潜哨戒機
海軍はTu-95の、とくに航続距離の長さを気にいり、この機を対潜哨戒機にも使いたいと考えた。それまで使っていたIl-38の航続距離では不足だったのだ。
この対潜哨戒型は海軍の意見・事情をふんだんに取り入れ、主翼の翼形を変えたり、燃料タンクをインテグラル式に変更した。整備の行き届かない海軍飛行場の事情から車輪も強化し、操縦系統は油圧装置で補助されるようになり、パイロットの負担が減った。大幅に改良されたTu-95には新たな型番「Tu-142」が与えられ、1968年から実戦配備に就いた。
ちなみに従来の沿岸対潜哨戒ならばIl-38で充分で、現在も現役を務めている。
巡航ミサイル母機として
空軍では1960年代半ばには生産が終了していたが、後継機Tu-160の開発が思うように進まず、完成して数が揃うまでの穴埋めが必要になった。
再び空軍に返り咲いたTu-95MSは、生産中だったTu-142を基に開発している。
この型は新型の巡航ミサイルにも対応できるように作られており、Kh-55ミサイルを爆弾倉のロータリー式発射装置に6発装備できる。
史上最大最高速のプロペラ旅客機とかその他
Tu-114「クリート」
Tu-95には旅客機型のTu-114「クリート」も存在する。
実のところ50年代当時のソビエトは、既にジェット旅客機の開発に成功していた。
Tu-104「キャメル」と呼ばれる機がそれで、DH.106「コメット」に並ぶ初期の旅客機である。
が、この機には初期ならではの不都合があり、またツポレフ設計局では開発期間の短縮を狙ったこともあってTu-95のエンジン・主翼を基に開発を行った。
胴体は新設計となり、まずは旅客機とするにはジャマな、主翼の中翼配置を低翼配置に改めた。
しかしプロペラと地表との距離関係は崩せないため、地表から床まで高さ5m(およそ2階の高さに相当)という、非常に主脚が長い旅客機となった。旅客数は通常170席、最大200席で、さらにキューバとの長距離便でも60席は設けていた。
こちらは史上最大のプロペラ旅客機でもあり、登場当時は最も多くの乗客を運ぶことができる旅客機であった。航続距離が長く、東京⇔モスクワ間の直行便用として営業飛行をしていたことがあるが、その特有の爆音が羽田から銀座まで聞こえたそうである。途中で航路を逸脱することもしばしば……おや、誰か来たようだ。
Tu-116
元々「Tu-114D」として公表された機体で、先のTu-114よりも実は完成が早い。
これはTu-95改造の軍高官用機で、戦闘用装備を取り除き、本来の爆弾倉を与圧式の客室に作り替えている。Tu-114と違ってこちらはタラップ内蔵式で、タラップが無くても済むように配慮された。
実のところ、Tu-114はニキータ・フルシチョフが国連総会に出席するために開発していたのだが、完成が間に合わないとして、急遽Tu-95から2機が改造されたもの。しかし結局フルシチョフはその1度しか乗らず、またのちにガガーリンにも専用機として与えられたが、こちらも利用することは無かったと言われる。結局その2機しか改造されていない事から、使い勝手もTu-114の方が優秀だったのだろう。
制式なNATOコードネームは無いようだが、上のような経緯からTu-116「フルシチョフ」と呼ばれる事もあるようだ。
Tu-95LAL(Tu-119)
Tu-95LALはNB-36Hと同じく、機内に原子炉を搭載し、対放射線シールドのテスト用に使われたもの。1961年の夏に34回の飛行を記録したが、墜落したら即放射能汚染という点が問題となって計画は中止された。
Tu-119はTu-95LALから更に発展し、エンジン4基中の2基を原子力エンジンに換装するものだったが、こちらも中止である。
Tu-95の現在
驚いたことに、いまなお現役を務めている。Tu-95は相変わらず日本周辺へ偵察飛行(東京急行)にやってくるが、スクランブルをかける空自の戦闘機ばかりがF-86、F-104、F-4、F-15…と移り変わってゆく。
2015年11月には、ISISへの巡航ミサイル攻撃を実施。お披露目から60年越しの実戦デビューを飾った。
最近ではTu-160が再び生産されるようになってきているので、これから痛みの激しい機から順次入れ替えられていく事だろう。
参考文献
文林堂 世界の傑作機No.110「Tu-95/-142 "ベア"」