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  1. 富士山の別名。葛飾北斎の絵画富嶽三十六景等で有名。
  2. 大日本帝国陸海軍が開発していた超大型爆撃機
  3. 戦国BASARAに登場する移動要塞

本項では主に2.について解説する。


概要編集

日本が国際連盟およびロンドン海軍軍縮条約から脱退し対米戦の危機の高まる中、中島飛行機(富士重工を経て現・SUBARU)の創業者中島知久平が構想した太平洋往還多目的超大型機、「Z飛行機計画」に端を発する。

これはターボチャージャー付5000馬力エンジンを6発搭載し、成層圏を飛行して直接米本土を攻撃可能な飛行機、として計画されていた。また、“多目的”であり、爆撃機型の他にも7.7mm機銃多数を胴体下に装備する地上掃射形、同様に20mm機銃を装備して敵編隊を攻撃する空中掃射形、主にパナマ運河占領を目論んだ空挺形などが計画されていたという。


立案時はさすがに陸海軍とも眉唾に思っていた。しかし対米戦不可避から開戦に至り、海軍の一式陸上攻撃機、陸軍の九七式重爆撃機一〇〇式重爆撃機『呑龍』ともに、寄ってたかって運動性能重視で搭載量軽視のため、肝心の爆撃機としての能力不足が露呈すると、遅ればせながら多搭載量の大型多発機の研究に乗り出す。

この過程で、陸海軍は日本本土から長躯米軍根拠地を攻撃できる6発大型機に興味を持ち、中島知久平の「Z飛行機計画」を部分的に取り入れた6発超大型機の計画を立てる。


この時点での構想は、1500馬力級エンジン6発で、搭載力よりも長く飛ぶことを想定したものであり、荒唐無稽な「Z飛行機計画」に比べて地に足をつけたものであった。


しかし戦局が急激に逼迫し、日本の敗色が濃くなってくると、当初の目的とはかけ離れた、「何とか一矢報いる」ための秘密兵器として死に物狂いで研究が進んで行った。

この時点で海軍G10Nの開発形式で正式な開発計画になる。ただ陸海軍共同ということであったが、陸軍の開発形式は不明である。

当初の陸海軍の構想よりは大型化したが、さすがに中島の「Z飛行機計画」ほどには贅沢な要求はできなかった。エンジンは三菱火星(複列14気筒)』『ハ42(複列18気筒)』をベースに複列22気筒化したハ50 22気筒3000馬力エンジンとされた。また航続距離の問題から米本土爆撃後は大西洋を横断してドイツに着陸する計画を立てていた。ただし中島の主張する太平洋往還爆撃機案も続けられていたようで、中島の36気筒エンジン(18気筒エンジン「ハ44」のシリンダーブロックを串刺しにして4列とする)にハ54の形式が振られている。


その後、なんとか木製モックアップの完成にはこぎつけた。またエンジンのハ50は連続運転試験をしたら4000馬力近く出ちゃったけど何の問題もなかったよー!という逸話も残っている。しかし当時の日本の国力が元々弱かった上に本土空襲を受ける段階にあっては完成は望めなかった。

計画の後ろ盾であった東條英機マリアナ沖海戦敗北に伴うサイパン島陥落の煽りで失脚したのもあって、計画は棚上げされてしまった。

他、中島社内でも根強い反対論があった。中島が開発していた四発重爆で性能的にも現実的で、量産化できていれば富嶽開発のための貴重な技術と経験が得られたであろう連山も、試作機を4機製造した段階で戦況悪化により開発中止に追い込まれている。

同時期に陸軍が川崎に「キ91」という別の四発の重爆撃機を開発させていて、こちらの方がまだ現実的として推す声もあった。

防空戦闘機のほうがこんな夢物語の爆撃機より重要だ!というもっともな軍の焦りも影響されたとも。


この時に作られた木製モックアップと機体図面に関しては、終戦時に情報秘匿のため焼却されたため細部は不明である。ただ“焼却された”という事実が残っていることと、ハ50の実物が発掘されたこと(現在、航空科学博物館に展示されている)から、“計画が存在しかなり具体的なところまで進んでいた”ことは紛れもない事実である


機体の細部についてはモックアップおよび資料が焼却されたため不明な点が多い。長年、日本機に多く見られたダグラス式の段差コクピットではないかとされていたが、近年の研究ではB-29のようなのっぺりした機首を持っていたようである。


仮に日本軍が1944年までに実用化に成功していれば、何らかの形で世界史に影響を与えたことは間違いなく、たとえ日本の敗戦という結果は覆らなかったとしても、その後の日本の軍事面で史実より良い影響を与えたであろうことは想像に難くない。

あるいは第二次大戦に日本が参戦していないか、英米に与して欧州に陸海軍合わせて20万人派兵するといった限定的な参戦をしている状況でなら、「キ91の次を担う機体」として昭和22年頃に試作機が飛んでいたかもしれない。


また、富嶽には爆撃機の他に、輸送機としての設計図、さらには200人の乗客を乗せることのできる旅客機としての設計図も存在した。史実では航空禁止令によって幻となったものの、平和が戻ってきた時、日本のフラッグキャリア大日本航空の顔として日本と世界のかけはしとして活躍する希望も託されていたのである。

【USO】中島飛行機 長距離旅客機 AT-5


まさに富嶽は、1944年以降、急激に滅亡に向かっていく戦前日本の希望の星だったのだ。



『富嶽』の映像作品編集

1979年、日本テレビ系の番組「土曜スペシャル」で「さらば空中戦艦富嶽 幻のアメリカ本土空襲」が放送された。水野晴朗の司会と、ハナ肇演じる中島知久平のドラマ、更に富嶽の離陸(タイヤを投棄するシーンもあり)から、デトロイト工業地帯とマンハッタン・エンパイヤステートビル空襲をミニチュア特撮で再現した(一部「ウルトラセブン」「戦え!マイティジャック」からの流用フィルムあり)。製作は「あゝ陸軍 加藤隼戦闘隊」「あゝ海軍」等の大映によるもので、富嶽を映像化した当時唯一の作品であった。本作は好評で、後に1983年「さらば海底空母イ401 幻のパナマ運河大爆撃」が放送され、本作の空襲シーンが流用された。

富嶽のミニチュアどっかに残ってないかな?


他に2019年にアニメ「荒野のコトブキ飛行隊」の終盤で敵勢力の戦略兵器として登場している。



架空戦記の『富嶽』編集

その存在と名が戦後人に知られるようになったのは1990年代の架空戦記ブームによる。ただしその多くは実際の計画の『富嶽』ではなく、中島知久平Z飛行機計画によるもの。これを知らしめたもっとも著名な作品が荒巻義雄の『紺碧の艦隊』と檜山良昭『大逆転! 幻の超重爆撃機「富嶽」』だが、直接タイトルとなった後者では、モデルは中島知久平のZ飛行機でありG10N1ではないことが第1巻巻頭に明記されている。(本作ではキ91をモデルにしたキ91改「峻山」という爆撃機も登場し、富嶽と共に活躍している)


その他にも『富嶽』を題材にした・あるいは登場する創作品は登場しており、超兵器として八面六臂の活躍を見せていることが多い。しかしこれらも、いずれも正式の『富嶽』ではなくZ飛行機計画に基づいたものがほとんどである。


富嶽は超兵器だったか。編集

一見荒唐無稽に見える『富嶽』だが、まったく同時期にアメリカは10-10ボマー(10,000(テン・サウザンド)ポンドの爆弾を搭載して、10,000マイルを飛行する)超大型爆撃機の構想を打ち出している。そしてそれは第二次世界大戦にこそ間に合わなかったものの、B-36という形で結実する。


技術面だけ見るならば米軍が実現させたので、国力上の余裕があれば日本が作るのも決して不可能ではなかった。それがむしろ架空戦記でしばしば登場することになった背景だろう。


関連タグ編集

富士山 日本軍 爆撃機 超兵器 架空戦記 大日本航空


B-36 B-29 キ91


外部リンク編集

富嶽を飛ばそう会

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