めざせモスクワ
1954年、戦略空軍長官に就任したカーチス・ルメイは『アラスカ~モスクワを無着陸で飛行できる爆撃機』開発計画を提唱する。これに対し、ノースアメリカンとボーイングが開発案を提出。2つは比較審査される事になった。
ところが、その開発案は爆撃機の両翼に、特大の燃料タンクと主翼の延長を継ぎ足したものだった。アラスカからモスクワは遠く、要求仕様を満たすためには
『目標手前まで亜音速で飛行、そこからは燃料タンクを切り離して超音速に加速する』
という離れ業が必要とされたのだ。
当然、ただでさえ巨大な機体は度を越して巨大なものとなり、
ルメイは『これでは3機編隊だ!』と怒って計画書を突き返したという。
ウェイブライダー
この問題を解決するヒントはNASAからもたらされた。
これは『デルタ翼機の下部にクサビ型の突起を設置する』というものである。
そう、超音速の衝撃波の上に機体を乗せるのである。
この理論は「コンプレッション・リフト」と呼ばれ、超音速を維持するパワーは変わらないものの、機体に揚力が補助されるため、主翼の空気抵抗を抑える事が出来るのだ。
(主翼の揚力で機体を支えなくてもよい=主翼は小さくても良い=空気抵抗や機体重量を減らせる)
有人爆撃機の敗北
・・・と、ここで一つの問題が持ち上がった。
1957年、ソビエトが人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功。
これは弾道ミサイルの発射成功と同義である。
核兵器の投射手段として利用されることが予想された。
これはアメリカでも『スプートニク・ショック』と呼ばれ、『今度はミサイルが万能になるのではないか』という風潮が生まれた。(ミサイル万能論)
ただし、冷戦の軍拡真っ最中にあっては、ルメイら軍拡派が主導権を持っていた。つまり『爆撃機も有効である』という意見が優勢だったのである。
これを突き崩したのがロバート・マクナマラである。
詳細はF-4やF-111といった別項を参照してもらうとして、彼は軍事費の大幅抑制を目指したのだ。当然、莫大な費用がかかるB-70計画も槍玉にあがった。
結果、B-70は『ICBM程の費用対効果を得られない』との結論が出た。
最高速度のマッハ3では、ほとんど真っ直ぐにしか飛べないのだ。これではICBMと大差が無い。「高高度飛行で防空網をかわす」という意見も、1960年のU-2撃墜事件で無意味となった。結局B-70量産計画は中止され、専用の随伴護衛戦闘機「F-108」の開発も中止された。
RS(Reconnaissance-Strike):偵察・爆撃
ちなみに、その後B-70は『偵察用と爆撃用を兼ねた機体』こと「RS-70」としても提案された。だが結局はロッキードのRS-71が採用される事になったのでお蔵入りとなった。また、RS-71はジョンソン大統領の言い間違い(カーチス・ルメイ将軍は正式にSR-71と型番を変更したが、当時の報道陣へ配った資料はRS-71のままになっていたので、速記者が誤解したのが真相らしい)
群青の空を超え・・・られなくて
しかし、人類未踏のマッハ3を調査するため、試作機と原型機3機の開発は継続された。
(試作機YB-70は後に開発中止)
時あたかもSR-71の登場前。人類初のマッハ3級実験機として期待された。
・・・と、ここで膨大な開発予算を要する開発計画が裏目に出た。本来はF-108と併せて開発される機体だったのだ。特にエンジンは共通化で予算を削減するためにB-70と共通であり、この中止はエンジン開発に大幅な遅延をもたらした。
減らされた予算と人員では余計に開発が遅れ、完成はSR-71(当時はA-12)よりも後になってしまった。「初めてのマッハ3」という栄誉までSR-71に奪われてしまい、XB-70はすっかり影に隠れてしまった。
その後XB-70はNASAで実験機として用いられた。実験の中には『超音速輸送機(SST=Super Sonic Transporter)開発計画』のためのデータ収集もあった。ここで収集されたデータが分析され、『SSTは不経済で非効率』という結果が出るのだが、それはまた別の話である。
ヴァルキリー
この名称は公募で決定したものと言われている。
応募総数は20235通と言われ、「ヴァルキリー」の名称はその中でも抜群のトップ・・・
・・・では無さそうだ。(「ヴァルキリー」の得票総数は13通)
どうも公募キャンペーンそのものがアリバイ臭い、と言われている。
余談だが、日本では本機の模型等が登場する前に『超時空要塞マクロス』版権を持つビッグウエストが「VF-1 バルキリー」を商標登録してしまったため、何の関係も無いXB-70の模型にビッグウエストの商標権シールが張られると言う珍事が発生した
なお『マクロス』の主人公の部屋には本機の模型が飾られていた。
ともかく、完成時は既に実験機として使われることが決まっていたので、完成した2機はそのまま実験機として用いられた。
1号機は1964年5月1日完成、9月21日初飛行。
2号機は1965年5月29日完成、7月17日初飛行。
時はベトナム戦争只中の出来事だった。なお、2号機は何かにつけて調子がよく、実験などには多く使われたという。ちなみに両者は機首下方の塗装で区別することができる(1号機が白、2号機が黒)。
ラグナロクの時へ
1968年6月8日、XB-70の2号機はエドワーズ空軍基地周辺の訓練空域においてGE社のCM撮影に協力。
しかし、その撮影終了後に編隊を組んでいたF-104Nが2号機に異常接近して空中衝突、F-104はあっという間に火球と化して墜落した。
XB-70そのものはしばらくそのまま飛行していたが、F-104が衝突の際に垂直尾翼を両方とももぎ取ってしまったので、機体は安定を失ってフラットスピン状態に陥り、操縦不能になった。訓練中だった副操縦士は強い横Gの中で意識を失い、機と運命を共にした。
機長も脱出カプセルに腕を挟まれながらやっとのことで引き込んで脱出したが、設計の想定から程遠い射出により、着地の際にエアバッグが作動せず脱出カプセルが粉々に破砕してしまった。全身の骨が砕ける重傷を負ったが、結果的にはカプセルが粉々にならなければ衝撃で死亡したと推定されている。
そして、F-104Nのパイロットの遺体(と思しきもの)はとうとう発見されず、この事件での死亡者は2名となった。
事故調査委員会がこの事故の調査に当たり、「編隊飛行に慣れてなかったF-104Nのパイロットの操縦ミス」という結論を出したが、事故の一部始終が撮影されていながら今なお不明点が多い。
CM撮影に参加したパイロットはいずれもベテランだったが、このCM撮影ではXB-70の他、F-104N、F-4、F-5、T-38と異なる5種の機体が編隊を組んで飛行していた。同種の機体の編隊飛行と比べて、異なる飛行特性を持つ機体の編隊飛行の場合は危険性が増大するとされており、一説にはF-104Nは他の機体よりも軽量だった結果、XB-70の翼端ないし機体前縁から発生した渦に巻き込まれたという見解が唱えられている。
また、事故調査委員会の指摘通り、F-104Nのパイロットが編隊飛行に不慣れだった(当パイロットはテストパイロットでもあり、チェイス機と距離を取って飛行するのが普通だったため、大型機と密集編隊を組んで飛行する経験があまりなかった)ことも指摘されている他、事故当時のT-38パイロット(XB-70の主任テストパイロットでもあった)は、「F-104NのパイロットはXB-70に対する自機の位置が分からなくなったので、単に位置を確認しようとXB-70に近づいた結果空中衝突した」と推測している。
晩年
この事故で墜落したのは2号機であり、1号機の方は無事だった。
残った1号機は、その後NASAに引き取られて上記のSST計画などに参加したという。そして1969年2月4日、1号機はライト・パターソン基地に最後の飛行を行った。
この「飛行」は自力で行ったものではなく、戦略爆撃機としては旧式のB-36が、最新鋭のXB-70を輸送したのである。B-36にXB-70の胴体を括り付け、本来6基のプロペラのうち、接触しそうな位置にある左右内舷のプロペラをとり外すという、航空ショーもかくやという離れ業であった。
着陸後、1号機は空軍博物館への11kmをトレーラーで移動し、こうして最後の旅を終えた。
現在、XB-70はデイトンの空軍博物館で展示されている。
かつてソビエトと隆盛を競い合った姿を、屋内展示場で見る事が出来るという。