DC-3
でぃーしーすりー
1935年から1945年までの約11年間に(軍用輸送機が中心だったとはいえ)10000機以上が製造された。そのうえ、ソ連や日本でもライセンス生産されている。
そもそもの発端
ダグラス社は、トランスコンチネンタル・アンド・ウエスタン航空(後のトランス・ワールド航空)の依頼でDC-1という旅客機を試作、これを改良した量産型のDC-2は、アメリカの航空会社だけでなく、KLMオランダ航空や日本航空輸送(現在の日本航空とは全く別の会社)などにも採用され、しかも日本でもライセンス生産されたことがある(ちなみに中島飛行機が担当)。
そのDC-2をベースに寝台飛行機をオーダーしたアメリカン航空に応える形で登場したのが、このDC-3である。
開発・初飛行
ところが、DC-2のままだと、ベッドを置きにくいという問題が浮上した。そこでこれを解決するために、胴体の幅を広げたのだった。かくしてオファーからわずか半年の1935年12月、「ダグラス・スリーパートランスポート(DST)」として初飛行に成功したのだった。
実績(第2次大戦前)
こうしてアメリカン航空のアメリカ大陸横断路線に就航したDSTだったが、この広い幅を活かした通常座席バージョンを開発することになった。そこでいざシートを乗せたところ、通路を挟んで2-1列で、かつ当時としては破格の21人分置くことができた。結果、普通の旅客機として売り出すと、機体性能の優秀さと相まって「飛ばせば儲かる飛行機」と評判になり(それまでの旅客機は客席が少なかったため、補助金なしでは元が取れない飛行機だったのである)、1939年までに600機売ることができたのだった。しかもアメリカのみならず、ヨーロッパ、さらにはアジアの航空会社からも引き合いが出されたのだった。
日本では日本海軍の依頼により三井物産がダグラス社からライセンスを購入、関連会社の昭和飛行機に製造を任せた。こうしてできたのが零式輸送機である。ちなみに、ユーザーは大日本航空と日本海軍だった。
第2次世界大戦
第2次世界大戦が始まると、アメリカ陸軍航空隊は、民間からDC-3を引っ張り出して軍用輸送機として使ったが、その広い胴体を買われ、本格的な軍用輸送機にするようダグラス社に注文、こうして生まれたのがC-47だった。
太平洋戦争開戦とほぼ時同じくしてC-47は「参戦」、アメリカが関わった戦場にその姿を見せるようになる。そして1945年の生産終了までに、海軍向けのR4Dやイギリス空軍向けのダコタも含めて10000機位作られたのだった。
大戦前にはイデオロギーの壁を越えて20機ほどがソ連にも納入されていた。大戦勃発後には現地でライセンス生産も行われ、Li-2(PS-84)という名称で5000機程度が製造された。(エンジンはソ連製に換装)
かくして戦後
戦争が終わると、C-47(あるいはR4D)の多くは立派な椅子をつけるなどした上で、あるいは輸送機のまま、民間に放出されることになった。そして、全世界にその翼を広げたのだった。
なお、C-47や、その「旅客機版」のC-53の実績から、座席数は2-2列配置・28人分にまで増加している。
1949年、何を血迷ったのかダグラス社は、DC-3にエンジン換装、垂直尾翼の再設計、主脚周りの一新などの諸改造を行い、DC-3Sという新モデルとして世に送り出した。
しかし前述の通り、当時の民間機市場には、民間放出された廉価な中古C-47が溢れかえっていたほか、DC-3Sは貨物搭裁量の割に高額であったことなどから経済性が悪く、民間機市場では失敗作となってしまった。
ただ、米軍向けにC-47から改造されたC-117D(R4D-8)はその信頼性の高さを買われ、人員輸送機などとして朝鮮戦争やベトナム戦争を支え、最終的には90年代まで現役で使用された。
日本の場合
第2次世界大戦敗北に伴い、日本はアメリカを中心とした進駐軍の命令により、飛行機を飛ばすことができなくなった。その結果、残った零式輸送機はすべてスクラップに追い込まれてしまう。
それから10年後の昭和30年、北海道の航空会社だった北海道航空が購入したのは良かったが、大人の事情により飛ばすことが出来ず、結果、少し遅れて購入した日本ヘリコプター輸送(日ペリ航空、全日空の直系の前身)によって、「久々に」日本の空を飛んだのだった。その後、大阪の極東航空(後に経営難により日ペリ航空に救済合併してもらって消滅)、藤田航空、長崎航空、名古屋の中日本航空、さらには海上自衛隊や伊藤忠商事、運輸省航空局にも採用されている。
ちなみに、日本航空も、フィリピン航空からパイロット込みでレンタルした上で試験飛行の時に使用したことがある。