概要
1974年3月15日生まれ、父ファバージ、母ロッチ、母の父ダイハード。通算11戦3勝。主な勝ち鞍は皐月賞、毎日杯。
全弟にマチカネイワシミズがいる。
悲惨な最期を遂げた馬として知られ、彼の悲劇は新聞記事で取り上げられ、やがては競走馬の養老施設や助成制度(功労馬繋養展示事業)が作られる契機となった。
デビュー〜現役時代
1976年7月に札幌でデビュー、3歳時は6戦して未勝利だったが、4歳になると初勝利、クロッカス賞(5着)を挟んで出走した毎日杯では重賞初挑戦にして初勝利と、その血に恥じない実力を発揮し始める。
続く皐月賞では8番人気だったものの、「天才」福永洋一を背に快勝。クラシック一冠目を手にした。
皐月賞を優勝したハードバージの次走は、二冠を目指して日本ダービーとなった。鞍上は武邦彦となった。
先行したラッキールーラをクビ差捉えきれず2着に敗れた。
ハードバージは、日本ダービー後に屈腱炎を発症。再起を図って治療に専念したものの快復に至らず、1980年に引退。結局、日本ダービーが最後のレースとなった。
種牡馬時代
引退後、ハードバージは沙流郡門別町の門別スタリオンセンターで種牡馬となった。
初年度には、48頭の交配相手が集まるなど当初は順調であったが、しかし期待していたほど産駒は走らず、1986年にシンジケートが解散。代表産駒は地方の重賞勝ち馬が1頭いるぐらいであり、何頭か繁殖牝馬となった産駒もいるが現在ではその血は全く残っていない。
悲惨な皐月賞馬の最期〜名馬の余生を考えるきっかけ
種牡馬引退後、ハードバージは「余生を大事に送らせること」を条件として家畜業者の手に渡ったのち、石狩市の石狩乗馬クラブに引き取られて去勢されるが、実際に乗用馬としての調教を始めてみると乗用馬としての適性がないことが判明。僅か3ヶ月で乗用馬を引退する。
続けてハードバージが譲渡されたのは福井県の観光業者だった。ショーでの見世物用や馬車を牽引する際の馬車馬として買われていったのだ。
そして「中世騎士の騎馬合戦」をテーマにしたホースショーへ参加したのだが、それは鎧も含めて90kg以上という重量を背負って行うという過酷なショーで、3週間ぶっ続けで参加したハードバージは急激に衰えて飼葉食いが悪くなった挙句、1987年7月、牧場での放牧中に日射病に倒れてそのまま死亡してしまう。14歳没。
この末路は新聞記事に取り上げられ批判が殺到。名馬の余世を考えるきっかけとなり、やがては競走馬の養老施設や助成制度(功労馬繋養展示事業)が作られる契機となった。
関連イラスト
右から二人目