概要
※馬齢は2000年までの旧表記(数え年)
生涯
1976年に京都でデビュー。12月の阪神での3戦目で初勝利。
4歳になった1977年に入っても条件戦で勝ちきれないレースが続き、春のクラシック参戦は叶わなかった。7月の中京で2勝目を挙げ、1戦挟んで600万下を2連勝して菊花賞に滑り込み出走を果たした。
第38回菊花賞
菊花賞は単勝9番人気であったが、1番人気の東京優駿馬・ラッキールーラを尻目に3コーナーでテンメイは勢いよく前に出て、4コーナーで先頭に立った。
実況していた杉本清(当時・関西テレビアナウンサー)は「テンメイ先頭、テンメイ先頭、テンメイが先頭だ!」と直線で何度もテンメイの名を口にし、「トウメイが待っているぞ!」と関西のスターホースであった母トウメイの名も出して印象的なフレーズを口にした。
しかしゴール前でプレストウコウの大外からの強襲に屈し2着。
続くオープン3着・阪神大賞典2着と好走し、菊花賞がフロックではないことを証明した。
第78回天皇賞
5歳になった1978年、第78回天皇賞(東京、芝3200m)に出走する。
この年の天皇賞(秋)は予想外のアクシデントが起こった。枠入り直後にパワーシンボリがゲートに噛みついてスタートできず、発走やり直し(カンパイ)が発生した。
再スタートとなったレースでは、スタートを待つ間に興奮してしまったプレストウコウが暴走気味の大逃げを打った。向正面で10馬身近い差を付けたプレストウコウだったが、最終コーナーでテンメイが差を詰め、菊花賞とは逆にゴール前でテンメイが半馬身差交わし優勝。
初重賞制覇が天皇賞となると共に、史上初の母子天皇賞制覇を成し遂げた。
同一馬主・同一調教師・同一騎手による勝利となったほか、母と同じ大外12番枠スタートからの半馬身差勝利も重なった。
天皇賞制覇後は阪神大賞典で1番人気に推されたが6着と敗退。1979年も連敗は続き、中京で行われた京都大賞典でレコード勝ちするが、それが中央での最後の勝ち星となった。
1980年中央競馬の登録を抹消後、岩手・水沢競馬場で競走生活を続行した。
引退後
1983年シーズンから種牡馬となるが、産駒は目立った成績をあげられなかった。
1993年10月7日、放牧中に左前肢を骨折し母トウメイより先に亡くなった。