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概要編集

アンバーシャダイ(1977年3月10日~2007年1月29日)

JRAに所属していた競走馬牡馬)。

4歳でようやくデビュー、5歳の秋に重賞初勝利と晩成だった。

種牡馬として大きな実績を残した。

主な勝ち鞍は有馬記念(1981年)、天皇賞(春)(1983年)など。


プロフィール編集

性別
毛色鹿毛
ノーザンテースト
クリアアンバー(母父:アンビオポイズ
生産者社台ファーム早来
馬主吉田善哉
調教師二本柳俊夫美浦トレーニングセンター
主戦騎手加藤和宏
生涯成績34戦11勝
獲得賞金4億6205万4400円

略歴編集

※馬齢は旧表記。


1977年

3月10日、社台ファーム早来で誕生。ノーザンテーストの初年度産駒だった。出生直後、1500万円で購入されたが、右膝を大怪我したためキャンセルとなり、社台グループ代表の吉田善哉の所有となる。


1978年

1年ほど調教もせず放牧されていた。


1979年

二本柳俊夫厩舎に入厩。痩せたみすぼらしい仔で全く注目されなかった。


1980年

1月5日、中山競馬場新馬戦(ダート1700m)で加藤和宏を鞍上にデビュー。3着に敗れる。

3月1日、中山競馬場の新馬戦(芝1600m)で初勝利。その後は条件戦を12着、11着と惨敗し、皐月賞には出走できなかった。

5月25日、東京優駿に出走するが、オペックホースの9着。クラシック期に出走した唯一の重賞となる。

12月21日、有馬記念の当日、冬至特別に出走し1着。


1981年

6月6日、みなづき賞でレコード勝ち。

9月12日、初秋ステークスで1着。この年3勝目となり、オープン馬に昇格。

10月25日、天皇賞(秋)に出走し、ホウヨウボーイの4着。

11月15日、目黒記念(秋)に出走し、1着。初の重賞勝利。

12月20日、有馬記念に出走し、1着。初のGⅠ勝利。同厩舎のホウヨウボーイの引退レースであり、二本柳は「ホウヨウボーイに花道を飾らせてやりたかったが、そうは行かなかった」と語った。


1982年

1月24日、アメリカジョッキークラブカップに出走し、1着。

4月29日、天皇賞(春)に出走し、モンテプリンスの2着。

10月31日、天皇賞(秋)に出走し、メジロティターンの5着。

12月26日、有馬記念に出走し、ヒカリデュールの2着。この年は善戦が多かったものの、緒戦が唯一の勝利となる。


1983年

1月23日、アメリカジョッキークラブカップに出走し、1着。

4月29日、天皇賞(春)に出走し、1番人気で1着。宝塚記念のファン投票1位となるが、左前脚繋靱帯炎で秋まで休養。

10月30日、天皇賞(秋)で復帰し、キョウエイプロミスの3着。

11月27日、ジャパンカップに出走し、スタネーラアイルランド)の6着。

12月25日、有馬記念に出走し、リードホーユーの3着。獲得賞金が歴代1位となる。


1984年

1月15日、中山競馬場でメジロティターンと合同の引退式が行われた。社台には入れてもらえず、アロースタッド新ひだか町)で種牡馬となる。ノーザンテーストの種付け料が高くて手が出ない生産者に人気を得た。


1989年

初年度産駒のレインボーアンバー弥生賞で勝利。その後も毎年のように中央の重賞馬を輩出する。


1992年

内国産馬ながら、サイアー・ランキングの4位に入る。


2002年

種牡馬を引退。功労馬としてアロースタッドで繋養される。


2007年

1月29日、放牧中に右肩を骨折し、安楽死の措置が執られた(31歳)。


主な産駒編集

レインボーアンバー メジロライアン カミノクレッセ ベストタイアップ カンファーベスト


関連イラスト編集

競走馬擬人化編集

馬


関連タグ編集

80世代 JRA 競走馬

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