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概要編集

1977年に騎手デビュー。1997年に騎手引退。

調教師に転身し、1998年に厩舎を開業した。


プロフィール編集

生年月日1956年1月31日
所属JRA美浦トレーニングセンター
所属橋本輝雄厩舎→フリー→橋本輝雄厩舎→フリー→高市圭二厩舎

来歴編集

騎手デビューまで編集

都電荒川線梶原停留所・早稲田方面ホームの前にあった古書店「梶原書店」(2021年閉店)の子息として産まれる。父が競馬好きでたまたま場外馬券売り場で見た騎手候補生募集の告知を見て勧め、騎手を目指す事となった。

1971年に馬事公苑長期騎手過程22期生として入所。同期には日本ダービーシリウスシンボリで制した加藤和宏騎手(現調教師)、同年の桜花賞エルプスで制した木藤隆行騎手(現調教助手)らがいる。そしてこの3人は普段から仲がいい上に同時期に揃ってGⅠ競走を制したことから「仲良しGⅠトリオ」とも呼ばれている(口さがない者からは三バ○大将と呼ばれていた)。

長期騎手過程卒業後に騎手デビューまでに3度落第(落第自体は別段珍しい事ではない)したが21歳の時に橋本輝雄厩舎所属よりデビューすることになった。


中山大障害を勝利編集

障害飛越は同期の中でも不得手な方だったが、バローネターフに騎乗し1979年の中山大障害春秋連覇を達成。その後も1981年の中山大障害(春)をナカミショウグンで制した。ただし、障害競走の通算騎乗数は44回とそれほど多いわけではない。


シンボリルドルフに土編集

時を経て1985年天皇賞(秋)。急遽出走を表明したギャロップダイナに騎乗することになった。それまで騎乗していた騎手がことごとく他馬に騎乗する事になった事と、管理調教師・矢野進の父の矢野幸夫が橋本師の兄弟子という縁であった。

ギャロップダイナは新馬戦以降に芝での勝利はなかったため、東京競馬場へ向かう車中で加藤和宏騎手と「勝ったら副賞の車をトンカチで叩き潰そうや」と軽口をたたいていたが、結果は「皇帝」シンボリルドルフを本当に後ろからバッサリしてしまい天皇賞ジョッキーとなった。


メリーナイスとともに編集

1986年には橋本輝雄厩舎のメリーナイス朝日杯3歳ステークス(現朝日杯フューチュリティステークス)を制覇。この時「ヨーロピアンスタイル」の騎乗を披露し不評だったが、これは左足を負傷していた根本がそれを隠すため、足に負担の少ない乗り方をヨーロピアンスタイルと称して誤魔化したのであった。

メリーナイスで1987年の東京優駿も勝利。橋本師は騎手時代にカイソウクモノハナで2度ダービーを勝っているが、調教師としては初めてであった。メリーナイスは映画「優駿 ORACION」のオラシオン役で映画デビューとなった(「優駿」の記事参照)。菊花賞では惨敗し有馬記念ではスタート後に落馬。

1988年の函館記念ではサッカーボーイの2着に入るも完敗であった。

メリーナイスの引退以降はブリザードトモエリージェントなどに騎乗したが、かつての輝きを取り戻すことはなかった。


調教師転身編集

引退前は高市圭二厩舎に所属し1996年度の調教師試験に合格。1997年2月23日の騎乗を以て騎手引退となった。

1998年に厩舎開業。ここまで4名の弟子を受け入れ3名が現役である。所属騎手は多くても2名までという近年の風潮の中では異例である。「馬を育てると同時に人も育てる」という方針の賜物である。


余談編集

  • ジョッキーマスターズの開催は根本師の尽力による部分が非常に大きい。根本師本人も第1回ジョッキーマスターズにメリーナイスの勝負服で参戦したが結果は最下位の9着だった。
  • 厩舎所属の藤田菜七子騎手の活躍により、2016年の競馬界を盛り上げた点を評価され特別表彰の対象となった。
  • 1988年に公開された映画「優駿 ORACION」にオラシオンの主戦騎手役で出演している。

関連タグ編集

JRA 騎手 調教師 優駿

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