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アグネスレディー

あぐねすれでぃー

アグネスレディーは元競走馬、元繁殖牝馬(1976年~1993年)。1979年の優駿牝馬優勝馬。

概要編集

1976年3月25日生まれ、父リマンド母イコマエイカン。通算18戦5勝。

主戦騎手は当時関西の若きリーディングジョッキー、河内洋(現・調教師)が務めた。


2-3歳時(1978-1979年)

1978年10月、京都開催の新馬戦で久保敏文を鞍上にデビュー。初戦は追い込みが届かず2着に敗れたが、2戦目で初勝利を挙げる。3戦目から騎手が河内洋に替わり、好位から抜け出して連勝した。


翌1979年、クラシックを目標に1月の2勝クラス戦・紅梅賞から始動したものの、同時期に食が細ったこともあり、紅梅賞、京都4歳ステークス、そして桜花賞トライアルである阪神4歳牝馬特別(現・フィリーズレビュー)の3戦は僅差ながら3着、5着、3着とパッとしない成績ではあったが、桜花賞トライアルで3着に入ったことで桜花賞の出走権は得ていた。そしてクラシック初戦の桜花賞では2番人気に支持されたが、苦手の重馬場でホースメンテスコ(15番人気)の6着に敗れた。


巻き返しを図るべく次走は東京4歳牝馬特別(現・フローラステークス)で2着と好走し、迎えた[優駿牝馬(オークス)では東京4歳牝馬特別を勝ったシルクスキーの骨折・戦線離脱により、桜花賞優勝のホースメンテスコ等を抑えて1番人気に支持された。レースでは道中5、6番手を進むと、直線で半ばで抜け出し、2着に2馬身半の差を付けて優勝。重賞初制覇をクラシックで果たし、また鞍上の河内にとってもデビュー6年目で初めての八大競走制覇だった。


夏を休養に充て、秋はエリザベス女王杯を目標に据えた。神戸新聞杯京都牝馬特別をそれぞれ3、5着と叩いて女王杯を迎える。当日は1番人気に支持されると、苦手とする不良馬場の中を直線で先頭に立った。しかしゴール手前でミスカブラヤカブラヤオーの全妹でもある)に一気にかわされ、同馬から 1馬身半差の2着に終わった。年末の阪神牝馬特別も5着と精彩を欠いたが、オークス優勝が評価され、翌1月には1979年度の最優秀4歳牝馬に選出された。


古馬となった1980年は、日経新春杯から始動。生涯最低に並ぶ9番人気と低評価であったが、ここを3着と好走し、続く京都記念(春)では最後の直線入り口からメジロトランザムと一杯に競り合い、同馬をハナ差退けて優勝。オークス以来の勝利を挙げた。次走オープン戦を2着として春季のグランプリ・宝塚記念に出走。しかしここは不良馬場に手間取り、最下位の15着と大敗を喫した。


休養を経て、朝日チャレンジカップに出走。ファインドラゴン、シルクスキーとの競り合いを制し、重賞3勝目を挙げた。ちなみに当日、馬主の渡辺孝男氏はイギリスの大種牡馬・ミルリーフとの交配権確保のため渡英しており、表彰式には不在だったが、交渉が成立し、この朝日チャレンジカップ優勝を以て引退が決定。12月14日、京都競馬場で引退式が行われた。


繁殖牝馬としては、前述のミルリーフとの間に産まれた子が期待されたが、事故のためデビューはできなかった。その後、1987年生まれのアグネスフローラが1990年の桜花賞を優勝し、母の無念を晴らした。


アグネスレディーは1993年に馬運車で移送中に暴れて、背骨の骨折を起こしたことにより死亡、18歳だった。


なお、アグネスフローラも繁殖入りし、産駒のアグネスフライト(父・サンデーサイレンス)が2000年の日本ダービーを、その全弟であるアグネスタキオンが2001年の皐月賞を勝ち、さらにはアグネスタキオンは種牡馬入りしてからも優秀な産駒を送り出し、2003年度の日本リーディングサイヤーにも輝いている。


また、アグネスレディーの主戦を務めた河内洋騎手は、アグネスレディー⇒アグネスフローラ⇒アグネスフライト/アグネスタキオンの鞍上をすべて務め、GⅠも彼の手綱によるものであった。


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