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概要

クモハタは1936年3月4日に千葉・下総御料牧場で生まれた。父トウルヌソル、母星旗、母の父ノーム。半姉に帝室御賞典勝利で繁殖牝馬として成功したクレオパトラトマスがいる。


栗毛の貴公子と評された。


現役時代

父・トウルヌソルは当時の大種牡馬、また母・星旗はクモハタの前に産んだ半姉クレオパトラトマスが競走成績でも優秀だったという血統背景もあるうえ、栗毛かつ持って生まれた雄大な馬格が注目を集めた。そして1938年、3歳時に開催されたセリ市において最高価格となる3万7600円(現在で言えば3億円台)で加藤雄策に落札された。3歳秋に東京競馬場の田中和一郎厩舎に入り、調教では良い動きを見せていた。


しかし競走馬デビューを間近に控えた1939年初頭、右後脚に蹄叉腐爛(馬の蹄の底、「蹄叉」の凹部につまった汚物が原因で蹄底が腐食し、悪臭を放つ病気。重症になると跛行も起こす)を発症。次いで左後脚にも同様の症状が現れ、ついには四肢の蹄すべてが蹄叉腐乱に冒されてしまう。

これにより2ヶ月以上の休養を余儀なくされ、本格的な調教を再開したのは目標とする東京優駿競争(5月28日)の3週間前であった。


5月20日に新呼馬戦でようやくの初出走を迎えたが、スタートで出遅れ2着に敗れたため、東京優駿競争2日前の5月26日に再度新呼馬戦に出走、2着馬を4分の3馬身退けて初勝利を挙げた。

しかしこの競走で事前に傷めていた肩の状態が本格的に悪化、さらに飼い葉も食べなくなり、栄養剤を混ぜた豆乳を鼻から流し込んで栄養を補給するという状態だった。だが東京優駿競争優勝のために大枚を投じた馬主・加藤は出走を諦めきれずに出走に踏み切る。現在では考えられない中2日の連闘である。


東京優駿当日、第1回横浜農林省賞典4歳呼馬(後の皐月賞)優勝馬・ロツクパークが故障により出走を回避、本命不在での競走となった。その中でクモハタは東京優駿競争初騎乗となる阿部正太郎を鞍上に、20頭立て8番人気という評価だった。

レースでは重馬場の中で後方待機策を取る。向正面過ぎから徐々に進出すると、第3コーナーから他馬が嫌う状態の悪い馬場内側を周って位置を上げる。そのまま内埒沿いを走って距離を稼ぐと、最後の直線に向いて外に持ち出し、先行から逃げ粘りを図るリツチモンドを追走。ゴール前50メートルで同馬をかわすと、そのまま1馬身の差を付けて優勝した。

デビュー9日でのダービー優勝は現在も史上最短記録であり、その後の競走体系・出走条件の変遷により、事実上更新不可能な記録となっている。

また、クモハタのダービー優勝時のニュース映画は現存しており、YouTubeで見ることができる。


体質の弱さのため、その後もクモハタは故障と付き合いながらの現役となった。通算21戦9勝を挙げたが、新呼馬戦とダービー以外の7勝は現在で言うところのオープン特別で、大レースである帝室御賞典では春は3着、秋は2着と勝てず、1940年秋の帝室御賞典を最後に現役を引退した。


馬主の加藤はその引退に際し、やはりクモハタは体質が弱く、故障がちだったために満足な状態で出走できなかったと評し、このために馬主として一度もクモハタのレースを楽しんで観戦できなかったが、この体質の弱い良血馬を競走馬として育てた調教師、騎手、厩務員諸君には心から感謝していると述べた。


種牡馬時代

引退後は種牡馬として北海道の日高種馬牧場に繋養され、2年目の産駒からいきなり天皇賞に優勝、通算25勝を挙げたカツフジなどの活躍馬を輩出し、むしろ現役よりも種牡馬としてその真価を発揮した。


1945年に第二次世界大戦が終結、戦後復興した日本競馬・日本馬産界において内国産種牡馬の雄として圧倒的な存在感を示し、現在のGI級に相当する競走で産駒17勝(障害の中山大障害勝ち馬も含む。)を挙げ、外国からの競走馬・種牡馬輸入が解禁された1952年から1957年まで、6年連続の日本リーディングサイアーを獲得した。

特に天皇賞の優勝馬は7頭輩出しており、2006年秋にサンデーサイレンスが8頭目の天皇賞優勝馬を輩出するまで史上最多の記録であった。1953年には内国産種牡馬のJRA年間最多勝利記録となる157勝を挙げ、2010年にキングカメハメハによって更新されるまで保持された。


1953年夏、日高地区で流行した馬伝染性貧血(現在も法定伝染病に指定)に罹患。同年9月10日、家畜伝染病予防法に基づき殺処分となった。17歳没。


遺骸は日高種畜場の功馬碑下に葬られている。死後もブルードメアサイアーとして数々の名馬に影響を残しており、現代の競走馬でも血統表の中に時折見出す事ができる。


余談

1951年より、クモハタの功績を称えて、中山競馬場に於いてクモハタ記念(芝1800m)が創設され、当時ステイヤー重視だった中央競馬の競走番組において、短中距離馬の目標とするレースとして、また歳末の中山開催の名物重賞競走として1980年まで施行された。


1984年には顕彰馬制度が発足し、その選考において現役時代の競走成績では主な大レース勝ちはダービーのみと並の優秀馬であったが、顕著な種牡馬成績が認められ、第1回選考で顕彰馬に選出された。


またゲーム「ダービースタリオン」でもクモハタはサイアーエフェクトとしてスタミナアップの効果を持ち、それでクモハタの名前を知った人も多いといわれる。


関連タグ

1939世代 顕彰馬 種牡馬

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