中野栄治若者には負けてられない
※メイン画像は本レースの優勝馬・アイネスフウジンのウマ娘化イラスト。
概要
開催前までの動き
前年末の朝日杯3歳ステークスをレコードタイで勝利し、クラシックの中心と位置付けられていたアイネスフウジンだったが、第50回皐月賞はハクタイセイ(父ハイセイコーとの父子制覇を達成)に敗れて2着。
この敗戦で「騎手を変えろ」という声も挙がったが、アイネスフウジンを管理する加藤修甫調教師は「騎手のせいではない。ダービーもそのままだ。」と庇った。
アイネスフウジンの主戦騎手・中野栄治は当時既に36歳とベテランの域に入っており、騎乗数が年々減少していたことから引退も考えていた。
迎えたダービー当日。折からのオグリブームもあり、史上最多の19万6517人という文字通りの大観衆が東京競馬場に詰めかける中、アイネスフウジンの単勝は3番人気。これについて中野は、「馬券が買えるなら借金してでもアイネスフウジンを1番人気にしてやりたい」と言った。
(注:八百長防止の観点から、騎手と調教師は競馬法で馬券が買えない。)
1番人気に推されたのは、メジロ牧場の期待株メジロライアン(鞍上:横山典弘)だった。
これまでメジロ牧場は1961年(メジロオー)、1983年(メジロモンスニー)、1988年(メジロアルダン)と3度に渡って2着に阻まれたため、ライアンに悲願を託したのである。
2番人気は皐月賞馬ハクタイセイ。騎手は皐月賞での南井克巳から、飛ぶ鳥を落とす勢いの若き天才・武豊に代わった。
出走馬
枠番 | 馬番 | 馬名 | 騎手 | 人気 |
---|---|---|---|---|
1 | 1 | ロングアーチ | 南井克巳 | 6 |
1 | 2 | シンボリデーバ | 田原成貴 | 7 |
2 | 3 | ビッグマウス | 柴田政人 | 9 |
2 | 4 | ホワイトストーン | 田面木博公 | 12 |
3 | 5 | サハリンベレー | 菅原泰夫 | 17 |
3 | 6 | メジロライアン | 横山典弘 | 1 |
3 | 7 | ストロングクラウン | 増沢末夫 | 13 |
4 | 8 | ユートジョージ | 岡潤一郎 | 4 |
4 | 9 | ロンサムボーイ | 的場均 | 19 |
4 | 10 | ワイルドファイアー | 中舘英二 | 21 |
5 | 11 | ダイイチオイシ | 猿橋重利 | 18 |
5 | 12 | アイネスフウジン | 中野栄治 | 3 |
5 | 13 | ニホンピロエイブル | 丸山勝秀 | 14 |
6 | 14 | メルシーアトラ | 河内洋 | 5 |
6 | 15 | コガネタイフウ | 柴田善臣 | 8 |
6 | 16 | ツルマルミマタオー | 田島信行 | 10 |
7 | 17 | インターボイジャー | 松永幹夫 | 22 |
7 | 18 | キーミノブ | 村本善之 | 11 |
7 | 19 | ハクタイセイ | 武豊 | 2 |
8 | 20 | カムイフジ | 郷原洋行 | 15 |
8 | 21 | ノーモアスピーディ | 安田富男 | 16 |
8 | 22 | ハシノケンシロウ | 大塚栄三郎 | 20 |
レース展開
↑フジテレビ版(実況:堺正幸)
↑JRA公式版
レース結果
着順 | 枠番 | 馬番 | 馬名 | 着差 | 人気 |
---|---|---|---|---|---|
1着 | 5 | 12 | アイネスフウジン | 2分25秒3 | 3 |
2着 | 3 | 6 | メジロライアン | 1と1/4 | 1 |
3着 | 2 | 4 | ホワイトストーン | 1と1/2 | 12 |
4着 | 6 | 16 | ツルマルミマタオー | クビ | 10 |
5着 | 4 | 8 | ハクタイセイ | 1と1/2 | 2 |
勝ちタイム2分25秒3はレースレコード(サクラチヨノオー)を1秒更新。
払い戻し
単勝 | 12 | 530円 |
---|---|---|
複勝 | 12 | 200円 |
複勝 | 6 | 150円 |
複勝 | 4 | 730円 |
枠連 | 3-5 | 770円 |
「ナカノコール」
逃げ切り勝ちを収めて見事第56回東京優駿優勝馬となったアイネスフウジンと、ダービージョッキーとなった中野騎手だったが、アイネスフウジンは1位入線直後に躓くなどすっかり疲労困憊で、中野と共にゆっくりと戻ってきた。当時はまだウイニングランは定着していない時代、多くの馬は向こう正面からそのまま馬場を退出していったが、アイネスフウジンは同じようにできなかったため、スタンド前から退場することになる。
その時、スタンドから優勝騎手となった中野を讃える「ナカノ」の声が上がる。それはレースが終わって数分が経ちながらも、ゆっくり戻るアイネスフウジンと中野に注目してまだ多くが残っていた観客たちに波及していき、やがて19万余りの観衆による大合唱へと変貌した。これが「ナカノコール」である。
日本競馬の歴史において優勝者を讃えてその名を唱和するのは過去に前例がなかったが、「ナカノコール」以降、勝った騎手や馬の名を呼んで讃える文化が定着することとなる。
それは、それまでギャンブルとして楽しまれていた競馬が、本物の「スポーツ」として楽しまれるようになった瞬間だった。
その他エピソード
全てを出し尽くしたアイネスフウジン
ゴール後しばらく、中野は精根尽き果てたフウジンを労り様子を見ていたが、それを見ていた他の騎手からは後に「向こう正面で泣いてたんだろ」とからかわれたらしい。
またレース後フウジンの左前脚屈腱炎が判明、秋の復帰を目指したが叶わず、結果的にこのダービーが引退レースとなってしまった。
レース後のインタビューで中野は「返し馬からすごく調子が良かったので、今日はレコードぐらい出ると思った」(要約)と語っている。映像
ダービーレコードと沖厩舎の悲哀
5枠11番のダイイチオイシは、沖芳夫調教師が初めてダービーに送り込んだ馬。厩舎開業3年目で初の重賞馬、初のGⅠ出走馬であり、期待の1頭だった。
しかしオイシは第3コーナーで競走を中止。アイネスフウジンのレコード(2:25.3)勝利を称えるナカノコールの影で骨盤骨骨折、予後不良と診断され安楽死となってしまう。
9年後、沖厩舎はナリタトップロードでダービーに再挑戦し、アドマイヤベガにクビ差で惜敗するが、その勝ち時計は奇しくも第57回のダービーレコード2:25.3だった。
関連タグ
1990年クラシック三冠
第57回東京優駿:アイネスフウジン
【前回】第56回東京優駿(1989年) 優勝:ウィナーズサークル(郷原洋行)