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ロングエース

ろんぐえーす

ロングエースは第39回日本ダービー優勝馬であり日本初の白毛馬ハクタイユーの父でもある。
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プロフィール編集

生年月日1969年4月2日
死没日1994年3月3日
性別
ハードリドン
ウィンジェスト
母の父ティエポロ
競走成績10戦6勝
主な勝ち鞍昭和47年日本ダービー/弥生賞

父ハードリドンと輸入された子息と孫編集

1955年にアイルランドで産まれた。通算成績は2~3歳時(現在の年齢表記)のみの出走で5戦2勝2着2回だがその勝ち星は英国2000ギニーとダービーである。なお、アイルランド調教馬が英国ダービーを制したのは1907年のオービー以来51年ぶりの快挙だった。引退後の1961年から67年まではアイルランドで供用され1964年の英愛2歳首位種牡馬にも輝いたが短距離血統と見られたため日本に輸出された。ハードリドンが成功をおさめた結果、産駒のハーディカヌートやその息子のハードツービートまで輸入されたが成功はできなかった。ハーディカヌートの代表産駒は1981年のクイーンCを制したカバリエリエース、ハードツービートの代表産駒は1992年の七夕賞の勝ち馬リーゼンシュラークや1988年の菊花賞でスーパークリークの2着に入ったガクエンツービート珍名馬タケシツービートである。


戦績編集

(馬齢表記は旧年齢表記)

4歳時編集

デビューから皐月賞まで編集

1972年1月にデビューし、新馬戦・ヒヤシンス賞・フリージア賞を立て続けに3連勝を飾る。4戦目のオープン戦、5戦目の弥生賞では後の皐月賞馬ランドプリンスを下し無敗でクラシック戦線に躍り出た。しかし皐月賞では1番人気に押されるもランドプリンスの3着に敗れる。そして第39回日本ダービーを迎える。


第39回日本ダービー編集

前年から流行していた馬インフルエンザの影響により日程が大幅に変更され7月9日に開催された。これが後年第39回日本ダービーが七夕ダービーと呼ばれている理由である。タイテエムランドプリンス、ロングエースによる3頭の叩き合いの結末はロングエースの勝利であった。


日本ダービー以降編集

以降は精彩を欠き、菊花賞は関東のエースイシノヒカルに屈し、有馬記念でも再びイシノヒカルに敗れ引退した。


引退後編集

種牡馬となり、初年度産駒から宝塚記念を制したテルテンリュウを送り出した。以降も日経新春杯を制したスピードヒーローなどを輩出している。そして日本初の白毛馬として生まれ落ちたハクタイユーも同馬の産駒である。1994年3月3日に永眠した。


ロングエースのサイヤーライン編集

ロングエースのサイヤーラインは2020年まで存続していた。ハクタイユーが引退後に種牡馬入りし2001年度産駒のハクタイヨーが不出走のまま種牡馬入りしたためである。だが、ハクタイヨーは2020年に供用実績のないまま種牡馬登録を抹消されている。


余談編集

  • 当時「馬体重500㎏以上の馬はダービーを勝てない」というジンクスがあったが、ロングエースの勝利によりこのジンクスは解消された。
  • 騎乗していた武邦彦騎手はこれが初めての日本ダービー制覇だった。
  • ロングエースという馬はもう一頭存在した。生年も同じ1969年なのでややこしいのだがこちらは地方で出走したアングロアラブ牝馬である。当時の事なので馬名審査も緩かったのではないかと思われる。

外部リンク

  • ランドプリンスやイシノヒカルは種牡馬入り後はさしたる産駒を残せなかった。ロングエースは内国産種牡馬冷遇の時代という状況下ながらも大健闘した種牡馬でもある。

関連項目編集

競馬 競走馬 日本ダービー

ハクタイユー 日本初の白毛馬でロングエース産駒。日本における白毛の競走馬の歴史はこの馬から始まった。

ハクホウクン ハクタイユー産駒で白毛馬として日本で初めて勝利を収めた。


関連タグ編集

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