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ロベルト(競走馬)

ろべると

アメリカ生産の競走馬。ヨーロッパで競走生活を送り、引退後はアメリカに戻って種牡馬として大成功した。
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概要編集

アメリカ生産の競走馬ヨーロッパで競走生活を送った。

主な勝ち鞍はダービーステークス(1972年)など。

引退後はアメリカに戻って種牡馬として大成功し、ロベルト系を確立。


プロフィール編集


略歴編集

1969年

3月16日、ジョン・ウィルマー・ガルブレイス(メジャーリーグ球団ピッツバーグ・パイレーツ」のオーナー)が所有する生産牧場ダービーダンファーム」で誕生。

父・ヘイルトゥリーズンは大種牡馬、母・ブラマリーコーチングクラブアメリカンオークスガゼルハンデキャップを勝った名牝であった。

ピッツバーグ・パイレーツ生え抜きの名外野手ロベルト・クレメンテ選手にちなんで「ロベルト」と名付けられた。


1971年

ガルブレイスはロベルトにヨーロッパで競走生活を送らせる事とし、アイルランドの名伯楽マイケル・ヴィンセント・オブライエン調教師(バリードイル調教場)に預けた。

7月17日、カラ競馬場キルデア県)の未勝利戦(芝6ハロン)でデビューし、初勝利を飾る。

8月28日、カラ競馬場のアングルシーステークスGⅢ)で重賞初勝利。

9月11日、カラ競馬場のナショナルステークスGⅡ)に出走し1着。フランスに遠征。

10月10日、ロンシャン競馬場パリ)のグランクリテリウム(GⅠ)に出走し、ハードツービートの4着に敗れた。


1972年

4月1日、フェニックスパーク競馬場ダブリン市)のヴォーホールトライアルステークス(GⅢ)に出走し1着。イギリスに遠征。

4月29日、ニューマーケット競馬場サフォーク州)の2000ギニー(GⅠ)に出走し、ハイトップの2着に敗れた。

6月7日、エプソム競馬場エプソムダウンズ)のダービーステークス(GⅠ)に出走。ラインゴールドをアタマ差で破り1着となる。アイルランドに戻る。

7月1日、カラ競馬場のアイリッシュダービー(GⅠ)に出走し、スティールパルスの12着に敗れた。イギリスに遠征。

8月15日、ヨーク競馬場ヨークシャー州)のベンソン&ヘッジズゴールドカップ(GⅠ)に出走。ハイペースの逃げを打ち、世界レコードで1着。ブリガディアジェラードの16連勝を阻止した。フランスに遠征。

9月10日、ロンシャン競馬場のニエル賞(GⅢ)に出走し、ハードツービートの2着に敗れた。

10月8日、ロンシャン競馬場の凱旋門賞(GⅠ)に出走し、サンサンの7着に敗れた。アイルランドに戻る。


1973年

4月、ロンシャン競馬場のガネー賞(GⅠ)に出走するためフランスへ遠征するが、負傷により回避。アイルランドに戻る。

5月7日、レパーズタウン競馬場(ダブリン市)のニジンスキーステークスに出走し、バリモアの2着に敗れた。イギリスに遠征。

6月5日、エプソム競馬場のコロネーションカップ(GⅠ)に出走し1着。

7月28日、アスコット競馬場バークシャー州)のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(GⅠ)に出走し、ダリアの11着に敗れた。現役引退となる。


1974年

故郷のダービーダンファームに戻り種牡馬となった。活躍馬を多く送り出し、後継種牡馬も大成功をおさめ、「ロベルト系※」を確立した。

※ロベルトがそうであったように長期間優良な産駒を送り出し、晩年にさしかかっても大物を出す種牡馬が多いが、腹がぼってりした不細工な容姿も遺伝する事が多かった。


1988年

8月2日、死亡(19歳)。遺体はダービーダンファームに埋葬された。


主な産駒編集

タッチングウッド リアファン ボブバック ブライアンズタイム サンシャインフォーエヴァー リアルシャダイ シルヴァーホーク アトタラク プレンティオブグレイス ダイナフォーマー クリスエス レッドランサム


余談編集


関連タグ編集

72世代 競走馬 種牡馬

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