概要
ケガにより2歳で引退。種牡馬として大成功し、ヘイルトゥリーズン系を確立した。
略歴
1958年
4月18日、ビーバー・ジェイコブズステーブル(ブリーダーのイシドア・ビーバーと調教師のヒルシュ・ジェイコブズによるユニット名)の名義でハギャード牧場(ケンタッキー州)で生産された。体高が高く大柄で、喧嘩に明け暮れて生傷だらけという暴れん坊であった。その一方で非常に賢く、ジェイコブズ夫人にはよく懐いており、見知らぬ人が来ると夫人を守ろうとした。
父のターントゥはネアルコの孫にあたり、競走馬としてはそこそこの成績だったが(ケンタッキーダービー目前に故障引退)、良血のため種牡馬となれた。
母のノーサードチャンスは非常に頑健な牝馬で、95戦11勝の成績を残した。母父のブルースウォーズは優れた能力を持っていたが、同世代のカウントフリートには歯が立たなかった。
調教はジェイコブズ師が行った。
1960年
1月21日、サンタアニタパーク競馬場の未勝利戦(ダート3ハロン)でデビュー。ダグラスC.の12着に敗れた。
2月11日、デビュー戦と同じコースで2戦めに挑んだが、ハイダディオーの13着に敗れた。東海岸に移動する
3月21日、アケダクト競馬場の未勝利戦(ダート5ハロン)に出走するが、ガーウォルの6着に敗れた。
3月26日、3戦目と同じコースを走り、スタンザマンの2着に敗れる。
3月31日、3戦目と同じコースを走り、ノーダンスの2着に敗れる。
4月4日、3戦目と同じコースを走り、初勝利。このレースで騎乗したロバート・ユーザリー騎手が後に主戦騎手となる。
4月15日、3戦目と同じコースを走り、キングズソングの3着に敗れる。
5月3日、3戦目と同じコースを走り、1ヶ月前に敗れたスタンザマンを降して1着。
5月11日、ユースフルステークスで1ヶ月半前に敗れたガーウォルを降して1着。
5月25日、ジュヴェナイルステークスでアイアンレイルの3着に敗れる。モンマスパーク競馬場へ移動。
6月22日、タイロステークスでチンチラの5着に敗れる。アケダクト競馬場へ移動。
7月6日、トレモントステークスで1着。後の殿堂入り馬・キャリーバックを子ども扱いの強さを見せた。
7月20日、グレートアメリカンステークスで1着。サラトガ競馬場へ移動。
8月1日、サンフォードステークスで1着。2着ブッシャーズビューティに6馬身差の圧勝だった。モンマスパーク競馬場へ移動。
8月6日、サプリングステークスで1着。サラトガ競馬場へ移動。
8月17日、サラトガスペシャルステークスでブロンゼルーラの6着に敗れる。
8月27日、ホープフルステークスで1着。コースレコードを記録。アトランティックシティ競馬場へ移動。
9月10日、ワールズプレイグラウンドステークスで1着。
数日後、アケダクト競馬場での調教中に落ちていた蹄鉄を踏んで左前脚の種子骨を骨折。ジェイコブズ師と息子ジョンはヘイルトゥリーズンの馬体を支えながら馬房に運び、石膏ギプスをあてがった。ヘイルトゥリーズンは自身が危険な状態なのを悟ったのか、苦痛に耐えて安静にし一命を取り留めることが出来た。完治には2年を要した。
競走馬としては引退となったが、1960年のアメリカ最優秀2歳牡馬に選出された。
1961年
生まれ故郷のハギャード牧場で種牡馬入り。初年度産駒は13頭だけだったが、この中からベルモントステークスを勝ったヘイルトゥオール、最優秀ハンデ牝馬(1967年)に選ばれたストレートディール、アーリントンワシントンラッシーステークスを勝ったアドマイアリングが出て、ヘイルトゥリーズンは一躍人気種牡馬となる。
1970年
北米リーディングサイアーとなり、ボールドルーラーの8連覇を阻止。
1976年
2月24日、死去(18歳)。
主な産駒
ヘイルトゥオール ストレートディール プラウドクラリオン パーソナリティ ボールドリーズニング ロベルト ヘイロー