概要
馬名は伝説的アフリカ系アメリカ人のジョン・ヘンリーに由来する。
有名ではない血統、貧弱な馬体、気性難などのハンデを背負っていたが9歳まで現役を続け、GⅠレース16勝の北米記録を持つ。
プロフィール
性別 | セン馬 |
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毛色 | 鹿毛 |
父 | オールボブバワーズ |
母 | ワンスダブル(母父:ダブルジェイ) |
生産者 | ゴールデンチャンスファーム(ケンタッキー州) |
馬主 | ジョン・キャラウェイ→ハロルド・スノードンJr.→ドーサ・リンゴ&コリーン・マディア→ハロルド・スノードンJr.→サム・ルービン |
調教師 | フィル・マリノ→ロバート・ドナート→ヴィクター・ニッカーソン→ロナルド・マッカナリー |
競走成績 | 83戦39勝 |
略歴
1975年
3月9日、ベルナ・レーマンが所有するケンタッキー州のゴールデンチャンスファームで誕生。
父のオールボブバワーズは30戦6勝、母のワンスダブルは19戦2勝と凡庸だったが、母父のダブルジェイは現役時代に最優秀2歳牡馬を受賞していた。
馬体は小さく貧弱で、脚は凹膝(腕節が後方に屈曲した状態。屈腱炎や剥離骨折になり易い)、気性が激しかった。
1976年
1月、キーンランドでセリに出され、ジョン・キャラウェイが1100ドル(当時のレートで約34万円)で落札。セリの最中に頭を壁にぶつけ、血まみれの状態で購入された。キャラウェイは鉄の桶を踏みつけて壊す有様から伝説のハンマー使い「ジョン・ヘンリー」を連想し、馬名とした。キャラウェイが懇意にしていた調教師は嫌がって引き受けてくれず、凹膝も悪化したので転売することにした。
1977年
1月、キーンランドでセリに出され、ハロルド・スノードンJr.が2200ドル(当時のレートで約64万円)で落札。スノードンはジョンヘンリーの制御不能な気性難を改善するため去勢したが、あまり改善されなかった。手放したいと思っていたところに、ルイジアナ州からコリーン・マディアとドーサ・リンゴ、息子のジョン・リンゴ、フィル・マリノ調教師が訪れ、ドラム缶をひたすら蹴りまくるジョンヘンリーの元気さを気に入り、1万ドル(約305万円)で購入し、フィル・マリノ師に預けられる事となる。
5月20日、ジェファーソンダウンズ競馬場(ルイジアナ州)の未勝利戦(ダート4ハロン)でデビューし1着。
デビューから7戦は3勝と好調だったが、レベルが高いフェアグラウンズ競馬場(ルイジアナ州)に移ってからは勝てなくなった。
2歳時は11戦3勝となった。
1978年
3歳になっても惨敗続きで、ジョンヘンリーはクレーミング競走(売りに出されている馬のレース)に出されるようになったが振るわず、買い手は現れなかった。マディアらはスノードンと話し合い、スノードン所有馬2頭とジョンヘンリーのトレードとなった。
再びスノードンの所有馬となりキーンランド競馬場に移動したものの、ジョンヘンリーは10連敗となる。
この頃、ニューヨーク市在住のルービン夫妻がニュージャージー・ネッツ(NBA)社長のジョー・タウブに2万5000~5万ドル程度で買える馬を探してもらっており、タウブが相談した知人のジミー・フェラーラがスノードンと交渉し、ジョンヘンリーは2万5000ドルで購入される。
ルービン夫妻はジョンヘンリーをロバート・ドナート調教師に預けたが、当初はハズレを引いたと思いクレーミング競走に出した。しかしジョンヘンリーは2戦続けて勝ち、特に6月1日の初の芝レースでは2着に14馬身差をつける圧勝だった。ルービン夫妻は考えを改め、芝を中心に使っていく事とする。
9月16日、アーリントンパーク競馬場(イリノイ州)のラウンドテーブルハンデキャップ(GⅢ)に出走し、重賞初勝利。
3歳時は19戦6勝となった。
1979年
ルービン夫妻とドナート師で意見の相違があり、ジョンヘンリーはヴィクター・"レフティ"・ニッカーソン調教師の厩舎に転厩する。一般競走では勝てるようになったが、重賞となるとまだまだだった。
9月10日、ベルモントパーク競馬場(ニューヨーク州)の一般競走で1着になった後、競馬場で双眼鏡を販売していたコーエン・ジョンソンが東海岸よりも西海岸のほうが芝の大競走が多いから本拠を移してはどうかとルービン夫妻に助言した。ルービン夫妻がニッカーソン師に相談したところ、カリフォルニア州のロナルド・マッカナリー調教師を推薦され、まだ実績のない調教師だったが任せることとした。
ジョンヘンリーはマッカナリー師にはよく懐いた。
4歳時は11戦4勝となった。
1980年
1月1日、サンタアニタ競馬場(カリフォルニア州)のサンガブリエルハンデキャップ(GⅢ)に出走し、ひさびさの重賞勝利となった。
2月23日、ハイアリアパーク競馬場(フロリダ州)のハイアリアターフカップ(GⅡ)に出走し、GⅡ初勝利。
3月16日、サンタアニタ競馬場のサンルイレイステークス(GⅠ)に出走し、GⅠ初勝利。
5月26日、ハリウッドパーク競馬場(カリフォルニア州)のハリウッドインビテーショナルハンデキャップ(GⅠ)に勝利し、重賞6連勝。
11月16日、サンタアニタ競馬場のオークツリーインビテーショナルハンデキャップ(GⅠ)に出走し1着。
エクリプス賞最優秀芝コース牡馬に選出。
5歳時は12戦8勝(GⅠ4勝)となった。
1981年
2月16日、サンタアニタ競馬場のサンルイオビスポハンデキャップ(GⅡ)で始動し1着。5月17日のハリウッドインビテーショナルハンデキャップまで重賞5連勝。
6月14日、東海岸へ遠征し、ベルモントパーク競馬場のボウリンググリーンハンデキャップ(GⅡ)に出走し、ステンの2着に敗れた。
7月11日、ベルモントパーク競馬場のソードダンサーステークス(GⅢ)に出走し1着。11月8日のオークツリーインビテーショナルハンデキャップまで重賞4連勝。
エクリプス賞年度代表馬、最優秀古馬牡馬、最優秀芝コース牡馬に選出。
6歳時は10戦8勝(GⅠ5勝)となった。
1982年
3月7日、サンタアニタ競馬場のサンタアニタハンデキャップ(ダート10ハロン・GⅠ)で始動し2着入線となるが、ペローの進路妨害降着により繰上勝利。
3月28日、サンタアニタ競馬場のサンルイレイステークスに出走し、ペローの3着に敗れた。体調を崩して半年間の休養となる。
10月17日、サンタアニタ競馬場のカールトン・F・バークハンデキャップ(GⅡ)で復帰。メフメトの3着に敗れた。
10月31日、サンタアニタ競馬場のオークツリーインビテーショナルハンデキャップに出走し1着。3連覇となる。
11月13日、東海岸へ遠征し、メドウランズ競馬場(ニュージャージー州)のメドウランズカップハンデキャップ(GⅡ)に出走し、メフメトの3着に敗れた。
11月28日、日本へ遠征し、東京競馬場のジャパンカップ(GⅠ)に出走。直線で失速し、ハーフアイストの13着に敗れた。遠征疲れで長期の休養に入る。
7歳時は6戦2勝(GⅠ2勝)となった。
1983年
7月4日、ハリウッドパーク競馬場のアメリカンハンデキャップ(GⅡ)で復帰し1着。
8月28日、東海岸に遠征する途中でアーリントンパーク競馬場のバドワイザーミリオンに出走し、トロメオの2着に敗れた。
10月15日、ベルモントパーク競馬場のジョッキークラブゴールドカップ(GⅠ)に出走し、スルーオゴールドの5着に敗れた。
11月13日、サンタアニタ競馬場のオークツリーインビテーショナルハンデキャップに出走し、ザラタイアの2着に敗れた。
12月11日、ハリウッドパーク競馬場のハリウッドターフカップ(GⅠ)に出走し1着。
8歳時は5戦2勝(GⅠ1勝)となった。
1984年
3.月4日、サンタアニタ競馬場のサンタアニタハンデキャップで始動しインテルコの5着に敗れた。
4月1日、サンタアニタ競馬場のサンルイレイステークスに出走し、インテルコの3着に敗れた。
5月6日、ゴールデンゲートフィールズ競馬場(カリフォルニア州)のゴールデンゲートハンデキャップ(GⅢ)に出走し1着。復調の兆しを見せる。
5月28日、ハリウッドパーク競馬場のハリウッドインビテーショナルハンデキャップに出走し1着。
6月24日、ハリウッドパーク競馬場のハリウッドゴールドカップ(GⅠ)に出走し、デザートワインの2着に敗れた。
7月23日、ハリウッドパーク競馬場のサンセットハンデキャップ(GⅠ)に出走し1着。
8月26日、東海岸に遠征する途中でアーリントンパーク競馬場のバドワイザーミリオン(1983年よりGⅠ)に出走し1着。
9月22日、ベルモントパーク競馬場のターフクラシックステークス(GⅠ)に出走し1着。
10月13日、メドウランズ競馬場のバランタインズスコッチクラシックハンデキャップに出走し1着。
11月、調教中に右前脚に屈腱炎を発症し療養生活に入る。
エクリプス賞年度代表馬、最優秀芝コース牡馬に選出。
9歳時は9戦6勝(GⅠ4勝)となった。
1985年
復帰へ向け調教を開始した。
7月、右前脚の屈腱炎が再発し引退となった。ケンタッキーホースパーク(ケンタッキー州)で余生を送る事となった。
1986年
サム・ルービンがジョンヘンリーの現役復帰を発表して話題となるが、マッカナリー厩舎で調教中に右前脚の屈腱炎が再発し取り止めとなる。
1990年
アメリカ競馬の殿堂入りを果たした。
2007年
10月8日、安楽死の措置が執られた(32歳)。遺体はケンタッキーホースパークのパドック前に埋葬され、銅像が建てられた。
余談
- ゴール後に電光掲示板の方向を向く癖があり、勝ちタイムやオッズを確認しているように見えた。
- 普段から地面の石を踏まないように用心深く避けて歩いており、マッカナリー師は膝に問題を抱えていたにもかかわらず長年活躍出来た秘訣としている。