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平安時代の第60代天皇

元慶9年1月18日(885年2月6日)~延長8年9月29日(930年10月23日)

在位、寛平9年7月13日(897年8月14日)~延長8年9月22日(930年10月16日)

宇多天皇の第一皇子。諱を敦仁といい、内大臣・藤原高藤の娘である女御・胤子を母として生まれ、親王宣下ののち、寛平5年(893年)立太子した。

寛平9年7月13日、父・宇多天皇から譲位される際『寛平御遺誡』を賦与され、左大臣・近衛左大将・藤原時平、右大臣・近衛右大将・菅原道真を引き続き重用することを条件に即位、父帝の側近である藤原時平菅原道真に政務を任せ、儀式の整備や格式及び国史の編纂、地方政治の振興など一連の政治的文化的政治改革が遂行された。その治世は34年も長く続き、摂関を置かない親政を行ったため、後世、村上天皇の治世と併せて「延喜・天暦の治」と称えられた。また、天皇は延喜14年(914年)三善清行が提出した意見書・『意見封事十二箇条』に代表されるように官人に対して国政に関する意見封事を行わしめている。(笠原英彦『歴代天皇総覧』)

昌泰4年(899年)1月25日、宇多上皇の信頼厚い道真を時平ら藤原氏の讒言を聞き入れて太宰権帥に左遷、『政事要略』巻二十二には、左遷の際の宣命が載せられているが、これによれば「道真は分をわきまえず、専権の心があり、宇多上皇を欺いて天皇の廃立を企てた」とされている。道真に対する処罰を知った宇多上皇は処分の撤回を申し入れようと御所の門前に立ち、終日庭に座して開門を侍ったが、天皇は上皇に会うことなく道真を太宰府へと左遷、政敵を葬った時平の権勢はいよいよ増していった。

しかし、延喜3年(903年)2月、大宰府で道真が死去すると都では異変が立て続けに起こった。

延喜9年(909年))に時平が39歳の若さで早世。二年後の延喜11年(911年)に皇太子・保明親王が21歳で薨去。さらに二年後の延喜11年(911年)に皇太孫の慶頼王がわずか5歳で夭逝。これを怨霊となった道真の祟りと恐れて慰霊に努めた。

延喜23年(923年)には道真を右大臣に復し、正二位を贈位、昌泰4年の左遷を命じた尚書も破棄したが、延長8年(930年)、清涼殿に落雷し藤原清貫が死亡。後に体調を崩して9月22日に出家し、同日に崩御した。

死後も道真の祟りに悩まされたと見なされていたようで、真言系修道僧日蔵「日蔵夢記」によれば、天神(道真)の恨みで衆生が苦しむ原因を作った罪で近臣と共に地獄に堕ちて苦しんでいたと伝わる(田中聡『妖怪と怨霊の日本史』)。

皇統

保明親王 ー 醍醐天皇皇太子

康子内親王

・寛明親王(第61代・朱雀天皇

・成明親王(第62代・村上天皇

・勧子内親王

  • 女御:源和子 ー 光孝天皇の皇女

・慶子内親王

常明親王

式明親王

有明親王

・韶子内親王

・斉子内親王

・宣子内親王

克明親王

・靖子内親王

  • 更衣:藤原鮮子 ー 藤原連永の娘

・恭子内親王

代明親王

・婉子内親王

・敏子内親王

重明親王

  • 更衣:源周子 ー 源唱の娘

・勤子内親王

・都子内親王

雅子内親王

・時明親王

源高明

・源兼子

盛明親王

・修子内親王

・普子内親王

長明親王

兼明親王

源自明

・英子内親王

章明親王

源為明

  • 更衣:源敏相の娘

源允明

  • 更衣:源清子
  • 更衣:藤原同子
  • 更衣:源暖子
  • 不詳

・源厳子

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後醍醐天皇醍醐天皇に肖り自らの追号を「後醍醐」と定めた。

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