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概要編集

父は藤原高藤、母は宮道列子宮道弥益の娘)、官位は従二位、右大臣、死後従一位が贈られた。


プロフィール編集

時代平安時代前期ー中期
生誕貞観15年(873年)
死没承平2年8月4日(932年9月6日
官位従二位、右大臣、贈従一位
主君宇多天皇醍醐天皇朱雀天皇
氏族藤原北家勧修寺流
父母父:藤原高藤、母:宮道列子宮道弥益の娘)
兄弟定国定方、満子、胤子定文、定数
藤原山蔭の娘、是貞親王の娘
佳節、朝忠朝成朝頼、理実、代明親王室、藤原雅正室、能子、藤原兼輔室、平随時室、藤原尹文室、欣子、藤原師尹室、橘典輔室、源為善室、藤原庶正


経歴編集

内舎人を経て寛平8年(895年)に従五位下となる、寛平9年(897年)に右少将となる、後に備前守、左少将、右中将に進んだ、延喜9年(909年)に参議となる、延喜13年(913年)に従三位、権中納言左衛門督となる、その後右大将、大納言に進み延長2年(924年)に右大臣となった、後に従二位、左大将となる。


人物編集

三条に邸宅があったため三条右大臣と呼ばれた。


百人一首

名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな


外部リンク編集

藤原定方 - Wikipedia


関連タグ編集

公卿 平安時代 藤原北家 勧修寺流

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