概要
経歴
貞観13年(871年)に誕生、仁和2年(886年)に元服をして侍従・右中将・蔵人頭を歴任後に寛平2年(890年)に従三位、翌年に参議に進んだ、中納言、大納言を経て寛平9年(897年)に醍醐天皇即位に伴って菅原道真と共に政務を行い後に左大臣に就任した。昌泰4年(901年)に右大臣道真を大宰権帥に左遷させ藤原氏の地位を回復させ翌年の昌泰5年(902年)に荘園整理令を行った。
延喜9年(909年)に死去。当時は京都で突発的な落雷や疫病で彼をはじめとした道真追放に連座した者が次々不審死を遂げたことから、怨霊の仕業だといわれた。
藤原北家はその時生き延びた弟の藤原忠平の系図が主流となり時平の系図は閑職に甘んじるようになっていく。
性格
上記の通り菅原道真を左遷させる中心人物となったためかあまり良い逸話は遺っていない。
冷酷で無愛想な我慢のできない性格だったといわれ、更に叔父の藤原国経の妻を寝取ったとも言われている。
しかし、その時歴史が動いたの古今和歌集完成会において当時は漢字が主流だった時代に平仮名]をメインに据えた歌集を完成させ、実際は現代で描かれるような悪人ではなかったことをうかがわせる研究も明らかになっている。