概要
経歴
応和元年(961年)に誕生、従五位下、侍従となり永観2年(984年)に蔵人、左少弁、寛和2年(986年)に蔵人頭になるが同年花山天皇を元慶寺に連れ出し天皇と共に出家すると偽り天皇を出家させ懐仁親王(一条天皇)を即位させた(寛和の変)、その功により参議、権中納言に進み、永祚2年(989年)に権大納言となる、翌年の正暦元年(990年)に父兼家が死去し関白は兄道隆となるが正暦2年(991年)に内大臣、正暦5年(994年)に右大臣に就任、翌年の長徳元年(995年)に兄道隆が死去し関白となるが同年に死去。
人物
歴史物語である栄花物語、大鏡では性格や容姿を酷評されているが、これらは後世の道長賛美の視点から相対的に悪しざまに書かれた可能性を考慮すべきである。同時代の貴族の日記である権記、小右記からは果断な実務家らしい姿が垣間見える。大鏡は道兼が関白を譲られなかったことを恨み父の喪に服さなかったと書く一方、小右記の正暦4年(993年)5月16日条には道兼が叡山横川で兼家の追善供養を執り行った記述がある。
和歌を好み、多くの歌人を粟田に招いて宴を催すなど、文化のパトロンでもあった。
彼自身の和歌は3首が現存している。
「あさがほのあしたの花の露よりもあはれはかなき世にもふるかな」……源英明女との贈答歌。
「しのべとやあやめもしらぬ心にも長からぬ世のうきに植えけん」……早逝した長男・福足君への哀傷歌。
「おぼつかなみかさの山の春霞いかがたちてし見ても告げなん」……藤原道信との贈答歌。
関白慶賀奏上から7日後(5月8日)に死去したため七日関白と称された。粟田に別荘を構えたことから粟田殿、また邸の場所から町尻殿との呼称もある。
家司であった藤原相如はその死を深く悲しみ「夢ならでまたも逢ふべき君なれば寝られぬゐをも嘆かざらまし」と和歌を遺した。相如は道兼の四十九日の法要に立ち会えない無念を口にしながら、同29日に死去(栄花物語巻5「みはてぬゆめ」)。