松平広忠
まつだいらひろただ
安祥松平家第3代当主・松平清康の嫡男(次男)。母は青木貞景の娘。弟妹には孫と同名の松平信康(源三郎)、酒井忠次と再婚した碓井姫、三河大樹寺の住職を務めた成誉一笑がいる。
1535(天文4)年、父の清康が尾張守山城攻めの最中に殺害された「守山崩れ」が起きる。その隙を衝くように大叔父で父と対立していた桜井松平信定が居城の岡崎城へ侵攻。千松丸は家臣の阿部定吉と清康の同盟者であった吉良持広に守られて伊勢へ脱出した。千松丸は持広の庇護下において元服し、持広の偏諱を受け祖父・松平信忠から一字を取り広忠と改めた。しかし、持広の死後、東条吉良氏を継いだ吉良義安が清康の敵対者だった織田信秀と結んだため吉良氏を見限り、駿河の今川義元を頼り、天文6年(1537年)に義元の援助もあり岡崎城へ帰還。
ちなみに信定は大久保忠俊らの家臣団を始め自身と協調していた広忠の叔父の松平信孝、さらに信定の弟である松平義春までも広忠支持の姿勢を見せたため不利を覚り広忠へ帰順するも翌天文7年(1538年)に病死した。
その後は不和になった信孝など松平氏の同族間や織田信秀との戦いを繰り広げ、対信秀で美濃の斎藤道三や信秀に不満を持つ織田彦五郎に接近している。
1547(天文16)年には信秀に通じた上和田城主・松平忠倫を暗殺し、織田軍の侵攻に際しては嫡男の竹千代を今川氏への人質とせざるを得なかったが、岳父(継室の父)である戸田康光の裏切りによって織田氏へと送られた(康光はその後松平・今川連合軍によって攻め滅ぼされている)。
翌1548年(天文16)年には岡崎城を攻撃してきた信孝を耳取縄手の戦いで討ち取った。
1549(天文18)年3月、24歳の若さで死去。岡崎城は今川氏の城代が置かれることになった。
広忠の死の直後の同年11月、義元は安祥城攻めの際に信秀の庶長子である織田信広を捕縛したのを好機とし、信広と竹千代を交換する形で奪還、改めて竹千代を今川氏へ送った。
- 死因は病死か暗殺とされるが今日では前者の可能性が高いとされる。
- 一国人だったため無位無官だったが、竹千代改め家康が位人臣を極めた後の1611(慶長16)年に従二位権大納言を、さらに1848(嘉永元)年に正一位太政大臣を追贈された。
- 子については、正室である於大の方との間に家康を儲けただけと思われがちだが、継室である戸田康光の娘・真喜姫や側室との間に最大で五男三女を儲けたとされる(但し真偽不明)。これらの庶子とされる人物を家康が重んじた様子はない(於大の方が再婚先で産んだ家康の異父弟達が後に大名にまで引き立てられたのとは対照的である)
於大の方との離縁
「於大の方の実家である水野家が今川家と手を切って織田家と結んだために広忠は於大の方と離縁した」との説が信じられてきたが、そもそも家康が生まれた頃の今川義元は駿河東部の支配権を巡って北条氏康や北条氏と共闘している堀越氏(遠江今川氏)などと戦っている最中(河東一乱)で、三河に出兵したり、織田信秀と戦っている余裕はなく、今川家と織田家のどちらかを選択するような状況になるのはもう少し後の話である、という疑問が出されている。
これに代わって浮上したのは、於大の方と離縁する前に発生した「広忠と重臣達が家中で専横をきわめる叔父(清康の弟)の松平信孝を追放した事件が原因」との説である。
これは、幼少の広忠の後見人として松平氏の外交を仕切ってきたのは信孝であり、松平家と水野家の同盟や広忠の婚姻を取りまとめたのは信孝であったと考えられるからである。家中の評判はともかく、対外的にはまだ若い広忠よりも長く外交の場にいた信孝の方が信用が高く、水野家からすれば「信孝を信用して同盟を結んだのに、その信孝を追放する広忠を信用出来るのか?」という不信感が強まったことで同盟が維持できなくなったというのである。
なお、継室の父である戸田康光は渥美半島から三河湾を挟んだ対岸の知多半島にも勢力を広げており、知多半島の支配を巡ってしばしば水野家と対立していた。水野家と敵対関係になった広忠としては、次の婚姻同盟を結ぶ相手としては最適であったと考えられる。
竹千代の人質送り
「戸田康光が織田信秀に買収されて竹千代を信秀の元へ送った」との説が信じられてきたが、近年になって「信秀によって岡崎城を攻め落とされた広忠が、織田への臣従のあかしとして竹千代を信秀の元へ送った」との説が出てきている。
この説によれば、今川からの独立を画策した広忠ら三河国人衆に対し、織田・今川連合が三河へ侵攻。先に岡崎を落とした織田氏が広忠軍を吸収する一方、織田への降伏をよしとしない一部家臣が今川に降ったことで、織田・広忠軍VS今川・広忠旧臣軍によって第二次小豆坂の戦いが起き、それに敗北した広忠が今川に再度降伏したとしている。