概要
脇坂安治は、1554年に近江国の土着武士の嫡男として生まれる。
脇坂家は代々浅井家に仕えていたが、浅井久政・長政が織田信長に敗れて敗死した為、明智光秀の与力となり、赤井直正との黒井城の戦いで武功を立てる。
その後、1576年頃に羽柴秀吉に直談判して、その家臣となっている。
1578年には赤母衣衆となり、知行地を与えられている。
1583年に安治に転機が訪れる。羽柴秀吉と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いにおいて、
総大将勝家の甥である柴田勝政を討ち取る大手柄を立て、3000石を与えられ、後世賤ヶ岳の七本槍に数えられる。
さらに1584~85年の小牧・長久手の戦いでは、伊勢・伊賀方面で武功を立てて、摂津に1万石の領土を与えらえている。
その後は九鬼嘉隆や加藤嘉明共に水軍を率い司令官の一人に任命され、九州征伐や小田原征伐で武功を立てている。
朝鮮出兵にも水軍を率いて参戦している。
文禄の役では初戦に武功に焦って独断行動に出で、李舜臣に大敗を喫している。
しかし、それ以降は他の武将と協力して、兵糧の運搬と朝鮮水軍の牽制をこなしている。
慶長の役では、1597年に元均率いる水軍を藤堂高虎共に強襲し、元均を討ち取っている。
それらの功績から3万3000石に加増されている。
安治の帰国後は、秀吉が死亡し徳川家康と石田三成の対立が激化し、それを抑えていた前田利家の死後は七将襲撃事件等が起きており、そのようなかで安治は家康に接近する。
1600年に家康が上杉景勝討伐の為に出兵すると、次男安元を派遣しする予定だったが、三成によって阻まれて為、家康に弁明している。
さらに、三成が挙兵した為に1000程度の兵で西軍につくが、既に三成を見限って東軍に内通をしており、同じ西軍に所属していた朽木元綱を内通を誘っている。
関ヶ原の戦いでは小早川秀秋の内通を警戒した島左近や大谷吉継によっての南宮山に配置される。
秀秋が裏切り大谷隊に襲い掛かるがこれは撃退されるのを見た安治は、大谷隊の与力の平塚隊を元網共に強襲し、西軍に大打撃を与える。
更に安治の裏切りが呼び水になって小川祐忠・赤座直保らも裏切り、平塚為広、戸田勝成らが討死し、吉継も自害し、西軍の右翼が崩壊してことで西軍は敗北する。
関ヶ原の戦いの論功行賞では、朽木、小川、赤座らが減俸や改易の扱いを受けたのに対して、安治は高虎を通じて西軍に着いた実情が理解され、唯一本領安堵されている。
その後1609年には伊予国に5万3500石に加増されている。
大坂の陣では安元を派遣し、その後は京都に隠棲して余生を過ごす。
1526年に病死。享年73。