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脇坂安治

わきさかやすはる

脇坂安治は、豊臣氏に仕えた武将の一人、賤ヶ岳七本槍に数えらえており、数々の戦場で武功を重ねていく。しかし、豊臣秀吉の死後は徳川家康に接近し、最終的に伊予大洲藩5万3500石の大名になる。 1554~1626年。

プロフィール編集

生没年:1554年〜1626年

幼名:甚内

通称:中書

号:臨松院

官途名:中務少輔

 

概要編集

近江国東浅井郡脇坂庄の土豪である脇坂安明の嫡男。

脇坂家は代々浅井家に仕えていたが、浅井久政長政織田信長に敗れて敗死した為、明智光秀の与力となり、赤井直正との黒井城の戦いで武功を立てた。


その後、1576年頃に羽柴秀吉に直談判して、その家臣となっている。

1578年には赤母衣衆となり、知行地を与えられている。


1583年に安治に転機が訪れる。羽柴秀吉と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いにおいて、

総大将勝家の甥にして佐久間盛政の実弟である柴田勝政を討ち取る大手柄を立て、3000石を与えられ、後世賤ヶ岳の七本槍に数えられる。


さらに1584~85年の小牧・長久手の戦いでは、伊勢・伊賀方面で武功を立てて、摂津に1万石の領土を与えらえている。


その後は九鬼嘉隆加藤嘉明共に水軍を率い司令官の一人に任命され、九州征伐小田原征伐で武功を立てている。


朝鮮出兵にも水軍を率いて参戦している。

文禄の役では初戦に武功に焦って独断行動に出で、李舜臣に大敗を喫している。

しかし、それ以降は他の武将と協力して、兵糧の運搬と朝鮮水軍の牽制をこなしている。

慶長の役では、1597年に元均率いる水軍を藤堂高虎共に強襲し、元均を討ち取っている。

それらの功績から3万3000石に加増されている。


安治の帰国後は、秀吉が逝去し徳川家康石田三成の対立が激化する。安治自身も三成のことを憎んでいたため前田利家の死後に発生した七将襲撃事件の七将の一人とも言われている。その後、安治は家康に接近する。


1600年に家康が上杉景勝討伐の為に出兵すると、次男(嫡子)の安元を派遣しする予定だったが、三成によって阻まれて為、家康に弁明している。

さらに、三成が挙兵した為に1000程度の兵で西軍につくが、既に三成を見限って東軍に内通をしており、同じ西軍に所属していた朽木元綱を内通を誘っている。

関ヶ原の戦いでは小早川秀秋の内通を警戒した島左近大谷吉継によっての南宮山に配置される。

秀秋が裏切り大谷隊に襲い掛かるがこれは撃退されるのを見た安治は、大谷隊の与力の平塚隊を元網共に強襲し、西軍に大打撃を与える。

更に安治の裏切りが呼び水になって小川祐忠赤座直保らも裏切り、平塚為広戸田勝成らが討死し、吉継も自害し、西軍の右翼が崩壊してことで西軍は敗北する。


関ヶ原の戦い後の論功行賞では、朽木は減封されて小川と赤座は改易されたのに対して、脇坂父子は高虎を通じて西軍に着いた実情が理解され、本領を安堵されている。


その後1609年には伊予国大洲に5万3500石に加増されている。

大坂の陣では安元を派遣。その後は京都の西洞院に隠棲して余生を過ごす。


1626年に病死。享年73。


なお、脇坂家は安元の代で安明以降の直系の血筋は絶えたが後継の安政が徳川家光のお気に入りだった堀田正盛の実子だったこともあり譜代扱いを受けるようになった。

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