生涯
幼少期
大永6年(1526年)に北近江の国人・浅井亮政と、近江尼子氏出身の側室との間に誕生。幼名は「猿夜叉」。子女に嫡男の長政の他、マリア(京極高吉室)などがいる。
一代にして浅井氏を北近江きっての勢力にのし上げた勇将・亮政とは対照的に、その息子である久政は武勇の面では今一つ冴えなかったとされ、亮政も娘婿で庶家当主の田屋明政に家督を譲る事を望んでいたとも伝わる。そのため、天文11年(1542年)に亮政の病没に伴い家督を継いだものの、この時義兄の明政が京極氏と組んで反旗を翻したという説もある。
対外抗争と六角氏への従属
久政が家督を継いだ当時の浅井氏は、国内では主家筋に当たる京極氏や他の国人らの反抗に苦慮する一方、国外に目を向けても南近江の六角氏の攻勢に曝される状況が続いていた。室町幕府の後ろ盾を得ていた当時の六角氏の勢いは相当なもので、久政の家督相続に当たっても六角氏の存在を背景にしていたと考えられる他、自身の正室を観音寺(六角氏本拠)に送るなど、当初から六角氏が優位な関係にあったものと見られている。
それでも天文17年(1548年)に畿内で発生した、細川晴元と三好長慶を中心とした抗争においては、以前より敵対関係にあった京極高延とも手を組む形で三好側に付き、細川側を支援していた六角氏の勢力圏を蚕食した状態で和睦に持ち込むなど、前当主・六角定頼の病没なども追い風として一時は六角氏より優位に立った事もあった。
しかしその勢いも長くは続かず、天文22年(1553年)に六角氏との地頭山(現・滋賀県米原市)合戦で敗北を喫し、久政も已む無く六角氏の傘下に入る事で、浅井氏の命脈を保つ選択を取る事となったのである。久政は嫡男の元服に当たって主君・義賢より偏諱を受け「賢政」と名乗らせ、また六角家中の有力家臣である平井氏の娘を賢政に娶らせた他、六角氏による伊勢侵攻にも従軍するなど、以降は六角氏に対する徹底的な従属姿勢を示し続けた。
しかしその一方で、民意を尊重した用水絡みの裁定や、領内での大規模な灌漑工事、さらには寺社との関係強化など、こと行政面においては父・亮政の代以上に手腕を振るった形跡も見られるなど、こうした取り組みが次代における浅井氏の発展に繋がったと見る向きもある。
強制隠居
しかしこうした久政の苦闘も、浅井氏傘下の国衆にとっては煮え切らないものがあると見られていたようで、永禄2年(1559年)に嫡男・賢政が元服してからはそうした傾向はますます強まるようになる。久政の代に入ってから、世代交代を名目に冷遇されていた先代以来の旧臣達の中からも、久政を見限り賢政に期待する者が徐々に現れつつあった。
そして同年、磯野員昌を中心に賢政を擁した国衆・家臣らは、浅井氏の自立を評定にて決し、久政にも隠居を迫ったのである。賢政もまたこの国衆・家臣らの期待に応える形で、永禄3年(1560年)に北近江へ侵攻してきた六角軍を相手に見事な戦いぶりを見せ、これを撃退せしめた(野良田の戦い)。
ここに至って久政も家臣らの要求を呑む他なく、合戦後の10月に隠居を決定。賢政改め新九郎(長政)に家督を譲ってからは琵琶湖北部の竹生島(現・滋賀県長浜市)に一時移っていた時期もあるが、その後も浅井氏の方針に対しては一定の発言力を保持していたと考えられている。
織田氏との抗争
長政の代に入り、浅井氏は尾張の織田信長と同盟を結び、信長が擁した足利義昭上洛の際にもこれを支援。一方でかつては浅井氏をも傘下に置いていた六角氏はこの上洛の動きに反発して撃退され、かつての勢威を喪失しつつあった。
かくして織田氏との同盟を背景に浅井氏の立場も安泰・・・かと思われた矢先、元亀元年(1570年)に織田・徳川連合軍が越前朝倉氏を攻撃した事により、その関係も破綻を迎える事となってしまう。この同盟破綻について、従来は「父・亮政の代以来の盟友であった朝倉氏との関係を重視した久政の意向が大きく関係していた」というのが通説であり、これも後世における久政の評価に影を差す要素と見做されてきたが、朝倉氏との同盟関係は久政の代に入ってから自然消滅していたとも、またそもそも両者の関係が同盟であったとは言い難いとの指摘もあり、果たしてこの同盟破綻に何処まで久政の意向が絡んでいたかは不透明なものがある。
織田氏との抗争はその後3年もの長きに亘って続き、その間久政も傘下の国人衆への書状を通して関係保全に腐心していたが、そうした働きも空しく天正元年(1573年)には本拠である小谷城も織田軍によって包囲されるに至ってしまう。
この時久政は小丸の守備に当たっていたが、その小丸と長政の籠る本丸の間にあった京極丸が羽柴秀吉隊によって落とされた事で孤立状態に陥り、最期を悟った久政は残った側近らと共に訣別の宴を開いた後切腹を遂げた。時に天正元年8月27日(1573年9月23日)、享年48であった。
評価
六角氏に対する従属姿勢や、織田氏との同盟破棄のきっかけを作ったと見られていた事から、浅井氏を滅亡に導いた張本人とも、また暗愚な当主とも見做される時期が、ごく最近まで長きに亘って続いていた。
しかし前者に関しては、昨今では六角氏の影響力を背景に領国経営に専念する機会を生み、江北における国人連合内での浅井氏の地位を確固たるものとしたと考えられている。また前述した内政面での手腕もまた、六角氏の施策を参考にしたものである事を鑑みれば、時勢を見極め巧みに自家の命脈を繋ぎつつ、むしろその関係性を利用して浅井氏発展の基礎を固める格好の機会を生んだ、と見るべきなのかも知れない。
また後者に関しても、こちらも前述の通り朝倉氏との関係が決して密とは言えない事を考えれば、これをもって久政を暗愚と見做すのは的を射たものではないだろう。
政治面だけでなく、文化面においても能を推進し連歌などを嗜む面も持ち合わせていた。そうした久政の側面を表すかのように、彼が庇護していた舞楽師の一人・森本鶴松太夫は最後まで久政につき従い、自害を見届けた後に「主君と同じ座敷では畏れ多い」と庭に下りて殉死を遂げたと伝わる。