概要
元々は名門京極家の譜代家臣の家系出身であったが、戦国大名として浅井家が独立するとそちらに従った。亮政・久政・長政の三代に渡って使えた重臣中の重臣であり、城内に居館を持つことを許された数少ない家臣の一人。
海北綱親・雨森弥兵衛の二人とあわせて『海赤雨の三将』と称された。
その忠義から全ての当主に信頼されたが、近隣の名族六角家に対して弱腰な久政に不満を持ち、遠藤直経と共謀して長政への当主交代劇を引き起こした人物でもある。当主が長政となった後は老齢を理由に表舞台に出ることは無かったが、軍目付として若き新当主を補佐した。
浅井家が織田信長と朝倉義景の板挟みとなったときは、親朝倉の立場を取って織田と敵対した。やがて戦況が不利になって朝倉家が滅亡して、浅井家も風前の灯となっても小谷城に籠って最後まで抵抗し、敗れると自刃して果てた。
その忠義心は信長にも認められ、子は助命されたという。