六角義賢
ろっかくよしかた
近江の守護大名・六角氏の15代当主。父・定頼の代からの周辺勢力と中央政界への影響力を引き継ぎ、六角氏の全盛期を創出するものの、家督移譲による二頭体制を布いてからは対外政策や家中統率に失敗し、没落の切っ掛けをも招く事となった。やがて織田信長の上洛に伴って本領を失うと、周辺勢力と結託し信長に対して根強い抵抗を続けた。
足利将軍家や細川・畠山などの管領家といった旧来の勢力・権威を支援する一方で、その陪臣に過ぎなかった三好氏や、一国人からの成り上がり者である浅井氏などの新興勢力に対しては激しく対立するなど、その基本的な行動理念は保守的・守旧的とも言えるものであった。
とはいえ山城占領後の動向や、足利義昭を保護しながら結局これを追放するなど、(様々な事情も絡んでいたとはいえ)その行動については必ずしも首尾一貫しているとは言い難く、その辺りもまた前述した外交・家中統率の失敗に繋がる要因のひとつとなった、と見るべきなのかも知れない。
家臣の吉田重政より日置流弓術の家伝を伝授された他、馬術においても佐々木流を興すなど、弓馬の名手であったと伝わっており、その腕前は嫡男・義治にも引き継がれ晩年豊臣氏に仕えた際にも大いに役立つ事となった。
前述の通り、信長に対し果敢な抵抗を続けた武将の一人ではあるものの、その一般的な知名度は決して高い訳でもなく、各種創作においても信長のやられ役がほとんどである。またその名字のため、大概顔や身体の一部、甲冑のどこかが六角形にされている場合もある。
六角氏の全盛期
大永元年(1521年)、近江(滋賀県)南部を領する守護大名・六角定頼の嫡男として生を受ける。16世紀に入ってからの六角氏は南近江だけでなく、伊賀も間接的ながら勢力下に収め、父・定頼の代には足利将軍家を後援して中央政界にも影響力を及ぼすなど、全盛期を迎えていた。
義賢が家督を継いだのは、天文21年(1552年)に父・定頼が没してからとなるが、その生前から既に共同統治者として活動しており、同時期に細川家中で発生した抗争においては当事者の一方である細川晴元を支援、敵対していた三好長慶とも一戦を交えている(江口の戦い)。この抗争は三好側の勢力伸長により晴元側が不利に転ずるが、永禄年間に入って晴元側が擁していた幕府将軍・足利義輝と長慶の和睦を仲介、引き続き中央政界への影響力を維持し続けた。
一方、父の代より敵対していた北近江の浅井久政に対しては、久政が京極高清と手を組んで六角領に侵攻に及び、一時は劣勢に立たされるも後にこれを撃退、敗れた久政の嫡男に偏諱を与えて賢政と名乗らせるなど、浅井氏に対する六角氏の優位を決定的なものとした。
家督移譲と山城占領
弘治3年(1557年)、37歳の義賢は嫡男・義治に家督を移譲、自らは剃髪して「承禎(じょうてい)」と号した。形の上では隠居の身となった承禎ではあるが、その後も家中の実権は引き続き掌握するという、いわば二頭体制とも言える状態が数年の間続く事となる。
しかし永禄3年(1560年)、浅井新九郎(賢政より改名)が家中の支持を得る形で六角氏からの独立を宣言、承禎も討伐軍を送るが新九郎率いる軍勢の前に思わぬ大敗を喫してしまう(野良田の戦い)。この一戦をきっかけに浅井氏に対しては次第に劣勢に立たされるようになり、六角氏は当主・義治の主導で美濃(岐阜県)の斎藤義龍と同盟を結んでこれに対抗するも、その後も両者の間では膠着状態が続いた。
承禎は姉妹が美濃の旧主である土岐氏に嫁いでいた関係上、そして斎藤氏と織田・朝倉両氏の対決に巻き込まれる事を危惧してか、この同盟には反対の意を示していた。また近年では桶狭間の戦いに関連して、六角氏が織田・朝倉と三国同盟を結んでいたとの指摘もあり、仮に事実であれば同盟反対にはその辺りの事情も絡んでいると見るべきかも知れない。
一方、中央政界においても再び騒乱の火種が燻りだしていた。10年以上に亘って続いていた細川晴元と三好長慶の抗争が三好側の勝利に終わり、晴元が長慶によって幽閉されたのである。この事態に怒り心頭の承禎は永禄4年(1561年)、畠山氏と連合して上洛し三好勢を撃破、その後の久米田の戦いでも三好実休(長慶の長弟)を敗死に追い込み、一時的ながらも山城(京都府)を掌握せしめた。
ところがこの後承禎は、理由こそ不明だが目立った動きを見せる事は無く、その間に態勢を立て直した三好軍が畠山軍との一大決戦(教興寺の戦い)を制するに至って、六角軍も近江へ退却の上長慶と講和に及び、その軍門に降る事となった。この一連の戦いを通して、三好政権はその勢力をさらに拡大する一方、六角氏はそれまで持ち合わせていた中央政界への影響力を弱める結果となったのである。
観音寺騒動
浅井氏に対する苦戦、中央政界における影響力の低下に悩まされる中、家中でも思わぬ内紛が勃発した。
永禄6年(1563年)に当主・義治が、先々代の頃より人望厚かった重臣・後藤賢豊を観音寺城内にて暗殺するという事件が発生した。暗殺の理由については当主代理として強い権限を有していた賢豊から、当主としての実権を回復するためだったとも、また一方で承禎からの信任も厚かった賢豊を除く事で、依然として実権を掌握し続けていた承禎の影響力をも退けるためだったとも言われる。
しかしこの一件は義治、さらには承禎にとっても予想以上の逆風を生む事となった。義治に対する家中の反感と不信が募った結果、攻勢を強めていた浅井氏に与する者が現れたのみならず、さらには一時的にとはいえ親子共々観音寺城より追放される憂き目に遭ってしまう。
この騒動は最終的に、蒲生定秀・賢秀親子らの仲介で承禎・義治親子の観音寺城への復帰が認められる一方、義治の弟である義定への家督移譲と、六角氏を中心とした秩序を回復する代わりに大名権力を抑制する「六角氏式目」の制定という、六角氏にとっては手痛い交換条件をのむ形で幕引きが図られた。
対外政策での失敗のみならず、家中の統率においても致命的な失敗を演じた事で、勢威を誇っていた六角氏も次第に没落への道を辿っていく事となる。
信長上洛と没落
永禄8年(1565年)、永禄の変で将軍・義輝が討たれた後、その弟である覚慶(足利義昭)は近江へ落ち延び、当初は承禎・義治親子も彼の上洛を支援すべくこれを迎え入れると共に、織田信長と浅井長政(この時期に新九郎より改名)の同盟を仲介している。ところが幕府の実権を掌握していた三好三人衆の説得により、承禎・義治親子は一転して覚慶より離反、これを追放してしまった。
この選択もまた、六角氏にとっては手痛い失策であった。越前に逃れた覚慶改め義昭はその後、永禄11年(1568年)に信長に奉じられ上洛の途につき、浅井氏もその支援に回ったのである。対する承禎・義治親子は信長からの従軍要請を拒んで抗戦するも呆気なく大敗、これにより本拠である観音寺城を再び追われ甲賀へ撤退せざるを得なくなった。重臣の蒲生賢秀も説得の末に信長に対し、嫡男の鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質に送り忠節を誓うなど、六角氏の没落はここに決定的なものとなった。
こうして本領を失ったとはいえ、甲賀の石部城に拠点を移した承禎・義治親子の、信長に対する戦いはその後も継続される事となる。
当初は三好三人衆と結託しゲリラ戦を仕掛け、元亀元年(1570年)に織田と浅井の同盟が瓦解すると浅井・朝倉両氏とも連携の上、南近江における織田の勢力に圧迫を加え(志賀の陣)、さらには信長と反目した将軍・義昭の呼びかけによる「信長包囲網」の構築をも手助けするなど、信長を倒すためならばかつての敵であった諸勢力とも組む事すら辞さない姿勢は、天正年間に入るまで度々信長を苦しめ続けた。
しかしそんな承禎・義治親子の執念も空しく、信長による畿内やその周辺の制圧は着々と進むばかりであり、そのような状況下において六角氏の再起する余地は最早どこにも残されていなかったのである。
こうして徐々に歴史に埋没していくかに見えた承禎・義治親子であったが、晩年豊臣秀吉が天下人として君臨するとその御伽衆として取り立てられ、慶長3年3月14日(1598年4月19日)に78歳で没するまで、穏やかなうちに余生を送る事となった。また息子の義治も後年、父譲りの弓馬の腕を買われて豊臣秀頼の弓矢の師範を務めている。