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戸田勝成

とだかつしげ

戸田勝成は戦国武将の1人。生年不詳~1600年。丹羽長秀、長重親子に仕えたあとに豊臣秀吉に使える。関ヶ原の戦いでは石田三成に率いる西軍につき、奮戦するも葬列な討死を遂げた。

概要編集

生年、出身地は不明。そもそも戸田氏に関する情報が少ないので、勝成の前半生は不明な点が多い。兄は、織田信長豊臣秀吉に仕えた戸田勝隆である。


勝成の初出は、山崎の戦い丹羽長秀の家臣として参加し、武功を立てたという記録である。翌年の賤ヶ岳の戦いに参加している。


長秀の死後はその嫡子勝重に仕えるも、丹羽家で騒動が起き大量の家臣が出奔した際に、勝成も丹羽家を去っている。


丹羽家を去った後の1587年の九州征伐に豊臣軍に従軍しており、兄勝隆の縁故を頼って秀吉の家臣になったと思われる。


その後は小田原征伐文禄の役肥前名護屋城では秀吉の馬回り衆として300騎を率いている。


秀吉の死後起きた関ヶ原の戦いでは、石田三成率いる西軍に参加する。

勝成は平塚為広と共に大谷吉継の配下として、東軍に内通していた小早川秀秋の抑え役として配置された。


合戦が始まると、倍近い兵力差にもかかわらず大谷・平塚隊ともに何度も小早川隊の撃退に成功する。しかし、同じ西軍でありながら東軍に内通していた脇坂安治が突如として裏切った事には反応が遅れ、安治とそれに便乗した小大名たちの裏切りで大谷・戸田・平塚隊は総崩れとなる。


勝成も自ら槍刀を取って奮戦するも、討死。

織田有楽斎の長男織田長孝と一騎討ちをして、槍を頭に受けて討たれたという。


親交のあった有楽斎は勝成の死を知って泣いて嘆き悲しみ、東軍の藤堂高虎黒田長政、総大将の徳川家康までがその死を惜しんだという。


戦国大戦編集



最後の一瞬まで、俺たちは武士であり続ける!


メイン画像の木志田コテツ氏が描いた姿で

Ver3.0関ケ原 序の布石打つ にて豊臣家所属の武将として登場。

レアリティはUC、2コスト武力7、統率5の疾駆持ちのバランス画型の槍足軽として実装。

スペックは可もなく不可もなくといったところで、主に計略面を生かした登用が多い。


計略は士気4を消費する謀才俊雄の英士(ぼうさいしゅんゆうのえいし)。

内容は豊臣家の味方の移動速度が上がり、さらに範囲内の文治派の味方の武将コストの合計値が高いほど忠誠度が上がるというもの。

武力上昇こそないものの約8カウントも速度25%上がり、デメリットなしに味方全体の忠誠度を回復出来るのは非常に優秀。

主な使い方は、忠誠度を回復させて武断派武将の計略強化を狙ったり、速度上昇を生かして一期に攻め上がったり、退却戦を迅速に行って犠牲を出さずに自城で防衛準備を固めたりと出来ることは多い。


ストーリーモードの群雄伝では、自らの信念で西軍につき奮戦、東軍に付いた藤堂高虎に思い出話をし互いの別れを惜しむ。小早川秀秋の裏切りで西軍が崩壊すると、弱音を吐いた大谷吉継を激励し、「いまから死ぬっていうのになんて心地いいんだ」との言葉を残し平塚為広と共に敵陣に突撃。

満身創痍の体で最後まで戦場を残り、旧知の中である織田有楽斎に首を討つよう懇願、可児才蔵が未届け人となり、最期は有楽斎と一騎討ちをして敗れ、その生を終えた

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